四万十市: 歴史
=== 地域史 ===
幡多荘の成立
現在の四万十市は、古代の行政区画では土佐国幡多郡に含まれる。土佐国にはヤマト王権が任命する地方官である国造として、都佐(とさ)国造と波多(はた)国造があり、波多国造は幡多郡を本拠地とした豪族と推定されている。
10世紀初めに成立した延喜式では、土佐国西部に幡多郡が設けられている。その郡司として、秦氏の名前が見える。
12世紀後半、藤原忠通が土佐国の知行国主となった時から、幡多郡と摂関家との関係が生じた。源平の争乱後、源頼朝がいったん平氏から没収し、忠通の子九条兼実に引き渡したものと考えられる。そのため、土佐国守護も容易に介入できない地域であった。兼実は、1206年(元久3年)、息子の九条良経が亡くなった時、その知行国であった越後・讃岐の代わりに後鳥羽上皇に土佐を希望し、これを九条家分国とした。翌1207年、兼実が亡くなると、孫九条道家が知行国を継ぎ、九条家諸大夫の源有長を土佐守に推挙した。有長の土佐守在任中の1220年代に、幡多郡の大半が九条家の荘園となり、1237年(嘉禎3年)の寄進状に初めて「土左国幡多御庄」の名が見える。道家は、1250年、幡多荘を含む荘園を三男一条実経(一条家の祖)に譲り渡した。一条家の幡多荘は、概ね旧中村市に当たる本荘のほか、幡多郡内の大方(おおがた)荘、山田荘、以南(いなん)荘、隣接する高岡郡内の久礼(くれ)別府から成っており、徐々に周囲を取り込んで拡大していった。
現在の四万十市の中の具同村が、平安時代から幡多郡郡衙が置かれた郡の中心地であり、一条家もここに奉行所を置いて、村々の預所と呼ばれる荘官たちを束ねさせた。
南北朝時代になると細川氏が土佐国守護に就き、守護代を派遣していたが、一条家の荘園であった幡多郡には、守護の支配権がほとんど及ばなかった。
土佐一条氏の統治
応仁の乱が始まり、公家たちが相次いで京都を離れる中、一条教房は、1468年(応仁2年)9月、海路土佐に下向し、幡多荘に入った。これが土佐一条氏の祖である。教房は、具同に代わり幡多荘の中心となっていた中村に邸宅を構え、中村館、幡多御所などと呼ばれた。教房は、以南村加久見(現土佐清水市)の領主加久見氏の娘を後妻に迎えるなど、地元の有力国人と結びつきながら、積極的な直務支配を進めていった。
1480年、教房が亡くなった時、その子一条房家は4歳であったが、国人・土豪層に擁立されて土佐一条氏を継いだ。その孫一条房基の代には、幡多郡・高岡郡を支配する公家大名となったといえ、戦国時代の他の大名・国人と同じように、家臣や寺社に対して宛行状や寄進状を発している。房家は、豊後水道を挟んだ九州を支配する大内氏に二男義房(大内晴持)を養子に入れ、大内氏が滅亡した後は、房基やその子一条兼定が、大友氏と姻戚関係を結んでいる。南海路を介して明や南方との対外交易に関わっていたことも窺える。
16世紀には、土佐中部・東部で長宗我部国親・元親が支配を固めた。1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城の津野氏と久礼城の佐竹氏が長宗我部氏に服属すると、一条氏の家臣団は和平派と反長宗我部派に分裂し、1573年(天正元年)、和平派が兼定に隠居を迫り一条内政を擁立した。兼定は、妻の実家大友宗麟を頼って中村から落ち、翌1574年(天正2年)に宗麟の支援を受けて中村の奪還を図ったが、四万十川の戦い(渡川の戦い)で敗れた。
長宗我部元親は、1575年(天正3年)に土佐統一を完成する一方、中村城に弟吉良親貞を入れ、伊予に進攻させるなどし、1585年(天正13年)に四国統一を達成したが、豊臣秀吉に屈服し、土佐一国の安堵に甘んじた。元親は、その後も、幡多郡と安芸郡を中五郡から分け、中村城代の桑名氏らに幡多郡の統治を委ねた。しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親のついた石田三成方が敗れ、長宗我部氏の支配は終焉を迎えた。
1600年11月、山内一豊が土佐藩の領主として入り、弟山内康豊を中村に置き、3万石を与えた。康豊の孫山内忠直の代、1656年(明暦2年)、中村は幕府内で3万石の認知を受け、1663年(寛文3年)には領地の配分が進められ、財政的な独立性も有する支藩としての性格を強めた。ところが、中村藩3代目に当たる山内豊明が、1689年(元禄2年)、若年寄を拝命した時の将軍の褒詞に対する返礼が不適切であったとされ、改易され、中村の土居屋敷・侍屋敷は破壊を命じられ、所領も没収された。所領は1696年(元禄9年)土佐藩に返還され、中村には幡多郡の郡奉行所が置かれた。
中村は、近世から近代に至るまで、幡多郡の政治・経済の中心であり、周辺地域から「御町(おまち)」と呼ばれた。18世紀半ば頃の家数は480余軒、人口1897人であった。
2005年(平成17年)4月10日 - 中村市・幡多郡西土佐村が合併して発足。
2024年(令和6年)8月8日 - 南海トラフ地震臨時情報が初めて発出。翌日にかけて避難所が設置された。