境港市: 歴史
=== 古代~平安時代 ===
縄文時代から古墳時代にかけての遺跡は比較的多い。
古くは夜見島と呼ばれていた。奈良時代から平安時代にかけて流砂の堆積により米子地域と陸続きとなり、1398年成立の『大山寺縁起絵巻』では弓ヶ浜半島が描写されている。島根半島沖の隠岐島は後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流された配流地として知られており、市域でも流罪となった両天皇に関係する伝承が残されている。
室町時代には島根半島に出雲守護代京極氏の一族である尼子氏が台頭し、応仁・文明の乱においては山名氏との合戦を繰り広げた。戦国時代には兵糧米の陸揚げ地・水軍停泊地として重要な位置を占め、毛利氏をはじめ戦国大名の軍事拠点、政争の地となった。
江戸時代には早くから鳥取藩の御番所が置かれ、文化年間以降は御廻米役所や鉄山融通会所も設けられ、安来の鉄を諸国に分配する千石船の往来で賑わった。明治以降は日本海国内航路の要衝として栄え、1896年には貿易港に指定され朝鮮半島の釜山、仁川、元山との大陸貿易も行われた。
昭和29年(1954年)7月29日、境町役場において合併調印式が行われた。調印式は県西部地方事務所長(代理)立合いの下で、6人の町村長(境町は松下助役)が合併申請書ならびに調印書に署名なつ印を行い、ここに境港町が発足した。合併申請は8月2日の臨時鳥取県議会に上程可決され、8月10日新町発足の運びになった。
合併の段階で市制施行が要望されていたが、人口が2万9746人と規定の3万人をわずかに割っており、市制施行は次期国勢調査の結果を待つことになった。第八回国勢調査は昭和30年(1955年)10月1日実施され、境港町の人口は3万3256人で規定の人口を満たした。これを受けて、1956年4月1日に市制を施行し、境港市が発足した。
近年、環日本海時代の一翼を担う国際貿易港としての整備拡充が進められている。
1969年、境港市の工事現場で人の左顎の一部とみられる古い骨が発見され、1970年、早稲田大教授の直良信夫は「5万~2万年前の後期旧石器時代の女性」のものと発表した。これは古い地名にちなんで「夜見ケ浜人」と名付けられた。直良はいわゆる明石原人の骨の発見者であるが、明石原人の骨も実際に後期旧石器時代の骨であるかにつき異論が出て疑問視されたまま空襲で焼失したことから、この発表も他の研究者らからはあまり重要視されてこなかった。その後、直良は死去、「夜見ケ浜人」の骨も所在不明となっていたが、2024年に早稲田大の研究室で見つかった。関係者らによれば化石骨のようにずっしりと重いという。これは時代的には新人の骨となるが、実際に後期旧石器時代の人間の化石骨であるか、鑑定結果が待たれている。