海津市: 歴史
=== 縄文時代 ===
南濃町羽沢に貝塚(羽沢貝塚)があり、土器・石器・人骨・甕棺が出土していることから、遅くとも縄文晩期後半(約2500年前)には海津一帯に縄文人が定住していたと考えられる。なお、この時代の海津は海に面しており、貝塚からはヤマトシジミなどが見つかっている。
1606年(慶長11年)ごろ - 標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちが、それまで下流側に堤防がない「尻無堤」に堤防を追加し、集落全体を囲う最初の輪中である高須輪中が完成した。その後周辺の集落もこれに習い、周辺地域には数十の輪中が形成された。木曽川や長良川の強力な水流が作りかけの堤防を流してしまうことも多く、川に人柱が捧げられることもあった。
1700年(元禄13年) - 尾張藩主徳川光友の二男松平義行が高須に封じられた時、行基創建の寺院跡といわれていた場所に、松平家の菩提寺として1705年(宝永2年)に再建されて行基寺と命名された。地元産の河戸石を用いた城郭造りで、濃尾平野を一望できる山腹にある。
木曽三川の全てが集中するという地理上の理由と、「堤を作るときは尾張藩の御囲堤(おかこいづつみ)より3尺(約91cm)低く堤防を作らなければならない」という幕府の命令により、江戸時代の海津市周辺は洪水が多発していた。これを改修するために薩摩藩士が動員され、そのうち33名が病死、平田靱負をはじめとする51名が引責、または、幕府への抗議のため自害した(宝暦治水)。治水神社は彼らを祭神とする。
宝暦治水は絶大な効果を挙げるように思われていたものの、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したため実際には輪中地帯の洪水の回数はむしろ増加した。したがって明治期のお雇い外国人であるヨハネス・デ・レーケによる木曽三川分流工事が行われるまで、輪中地域はたびたびの洪水被害に苦しんだ。
高須藩から、徳川慶勝や松平容保をはじめ高須四兄弟を輩出した。彼らは後に、全員が主要な藩の跡目を継ぎ、旧幕府と新政府の両政府で中心的な役割を果たした。彼らは、それぞれ新政府側、旧幕府側に分かれたとはいえ兄弟間の関係は良く、1878年(明治11年)には4人揃って撮影された記念写真が現存している。
1883年(明治16年)11月1日、三重県桑名郡の金廻村・油島新田・江内村を岐阜県下石津郡が編入。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制施行(1町34村)
高須町、高須村、萱野村、札野村、内記村、馬目村、福岡村、日下丸村、西小島村、東小島村 (高須町 → 海津町 → 海津市)
稲山村、安田村、安田新田、本阿弥新田、沼新田、帆引新田、深浜村 (西江村 → 海津町 → 海津市)
万寿新田 (西江村及び大江村 → 海津町 → 海津市)
福江村、金廻村、油島村、古中島村 (大江村 → 海津町 → 海津市)
西駒野村、徳田村、徳田新田、庭田村、奥条村、羽沢村、山崎村、上野河戸村 (城山町 → 南濃町 → 海津市)
太田村、吉田村、田鶴村、松山村、境村 (石津村 → 南濃町 → 海津市)
1897年(明治30年)4月1日 - 海西郡、安八郡の一部(今尾町、高田村、三郷村、仏師川村、平原村、土倉村、脇野村、西島村)と合併して海津郡となった。
1954年(昭和29年)
11月3日 - 城山町が池辺村のうち大字駒野新田、釜段字徳島を編入
11月5日 - 城山町、石津村、下多度村が合併、南濃町を設置
1955年(昭和30年)
1月15日 - 高須町、吉里村、東江村、大江村、西江村が合併、海津町を設置
2月1日 - 海津町が今尾町字平原を編入
2月1日 海西村、今尾町(字平原を除く)が合併、平田町を設置
1966年(昭和41年)12月2日 - 海津町と平田町大字脇野の境界変更
2005年(平成17年)3月28日 - 海津郡の3町、海津町、平田町、南濃町が合併、海津市を設置。これにより海津郡が消滅。
== 行政 ==
横川真澄(2021年5月8日就任、2期目)
==== 日本国外 ====
姉妹都市
エイボンデール(アメリカ合衆国アリゾナ州)
1993年(平成5年)5月12日に旧海津町が姉妹都市提携
姉妹都市
霧島市(鹿児島県)
江戸時代に幕府の命によって薩摩藩士が行った治水事業(宝暦治水)の業績を讃え、姉妹都市提携がなされた。
1970年(昭和45年)10月26日に旧海津町と旧国分市が姉妹都市提携。2006年4月25日に海津市と霧島市で再提携。
提携都市
愛西市(愛知県)
2007年(平成19年)3月1日 災害時相互応援協定締結
その他
全国門前町サミット
全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。