高梁市: 歴史
=== 中世 ===
成羽では1189年(文治5年)、河村秀清が鶴首城を築城したと伝えられる。
高橋(現在の高梁市中心部)では、1240年(延応2年)、相模国の三浦氏一族と伝えられ、承久の乱後に有漢郷の地頭となった秋庭重信が大松山に最初の城を築いた。1331年(弘元元年)から三好氏一族の高橋宗康が居城した頃には、3つ目の小松山にまで縄張りを拡大。この辺りの地名はこれまで高橋であったが、高橋宗康が自分の姓を呼ばせるのを嫌ったためか、松山に改めている。
以後、備中国のほぼ中央に位置する要衝として、その支配権を巡る幾多の争奪戦が繰り広げられた。上野氏、庄氏が城主となって支配した後に、永禄年間(1558~1570年)には成羽の豪族の三村氏が備中松山城に入り備中北部一帯を支配した。
1575年(天正3年)の備中兵乱で三村氏は毛利氏・宇喜多氏両勢力によって滅ぼされると、備中国は高梁川を境に西側は毛利氏、東側は宇喜多氏によって分割支配された。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで両勢力とも退いた後、備中松山は幕府の天領となり国奉行の小堀氏(小堀正次と子の政一(遠州))が入った。1617年(元和3年)大名の池田氏が入封し備中松山藩が成立すると、水谷氏の時代にかけて備中松山の城下町が完成した。
水谷勝隆が玉島において新田開発を行うと、子の水谷勝宗は高梁川に接続する運河である高瀬通しの造成により、高梁から玉島まで水路で繋がった。高梁からの高瀬舟による水運が発達し、玉島港の繁栄に伴い高梁は物流拠点の地位を確立した。また、勝宗は備中松山城の天守を建造した。
一方、成羽藩では、1617年(元和3年)藩主の山崎家治が成羽城を築き鶴首城は廃城。1639年(寛永16年)水谷勝隆が入るも、1642年(寛永19年)備中松山城へ移り成羽藩は一旦廃藩。1658年(万治元年)山崎家治の分家である山崎豊治が成羽藩へ入り、以後山崎家が廃藩置県まで治めた。
幕末、備中松山では財政難に苦しみ、板倉勝静が藩主として家督を継いだ1849年(嘉永2年)には、負債は約10万両に達していた。この逼迫した藩財政の立て直しを山田方谷の登用により委ねた。方谷の改革により赤字だった藩財政は8年で逆に大幅な黒字へ転換し、大坂商人への借金返済も約束の期限を大幅に短縮している。この藩政改革の成功により、松山藩は5万石ながら実質20万石に相当する経済力、軍事力を備えたともいわれ、諸藩から注目された。
藩政改革の功績により、藩主の板倉勝静は幕府の要職に登用され、1862年には老中に就いた。1868年(慶応4年)戊辰戦争の際、勝静が旧幕府軍で転戦したため、備中松山藩は朝敵とされた。国元では、新政府の命令により岡山藩に攻められる事態となったが、方谷は備中松山城の無血開城を決したため、城下町が攻撃されることなく岡山藩の支配下に置かれた。
1869年(明治2年)山田方谷から派遣された松山藩士により箱館から東京へ連れ戻された板倉勝静は、降伏を決断する。これにより、備中松山藩は減封となる。
また、同名の伊予松山藩が早い段階で恭順したため、新政府は敵対した側の備中松山藩に藩名の変更を要請。高梁川の名から取った高梁藩に改名したことが、現在の高梁市の由来となっている。
現市域の高梁川以東の大部分は賀陽郡、以西の大部分は下道郡(時期によっては小田郡・後月郡も混在)であった。のちに東部は上房郡、西部は川上郡として分立した。1871年(明治4年)、廃藩置県により藩名は高梁県・成羽県となった後に統合して小田県となり、1875年(明治8年)に岡山県に統合された。1889年(明治22年)6月1日、町村制施行によりそれまで村であった単位が統廃合し、高梁町・松山村・川面村・巨瀬村・津川村・宇治村・落合村・高倉村・玉川村・松原村・宇治村が発足した。
産業では、江戸時代から牛や馬の売買が行われており、1885年(明治18年)に家畜市場が設立されると、1992年の閉場まで100年以上もの間取引が続けられた。葉タバコの生産地として1897年(明治30年)に高梁一等葉煙草専売所(後の日本専売公社高梁工場)を開設した。大正初期には、この地域でモール製造機が発明され、機械モールの生産が始まった。その後、アメリカへ輸出されるようになり、急速に発展した。昭和中期まで地域の特産品としての地位を占めるようになる。
生活も次第に近代化され、大正初期には一時期ガス灯だったが、大正末期頃までには(旧)高梁市域全域で電気のある生活ができるようになった。道路などの整備は不十分で、輸送の中心は高瀬舟であった。1904年(明治37年)に中国鉄道吉備線が岡山駅から湛井駅(現在の総社市)間に敷設されると、高梁の物流はそれまでの玉島経由から、湛井を経由したものにシフトされた。1918年(大正7年)には自動車備北組合が開業(同年中国自動車に組織変更。現在の備北バス)し、高梁から湛井までの間で乗合自動車の運行が開始した。1922年(大正11年)頃にはタクシー業者も生まれた。道路網は、山の尾根を経由した道が多く、河川の横断は、高梁川の一部で木造橋梁が建設され始めたものの、架橋費用が膨大でまだ渡し船が一般的であった。
教育では、多くの教育者・学者・思想家らを高梁から輩出した。山田方谷は藩校の有終館や私塾の牛麓舎などで教鞭をとり陽明学を教え、多くの門下生を輩出した。1879年(明治12年)から高梁でキリスト教の伝道活動が始まり、特に1880年(明治13年)に同志社創立者の新島襄が4日間の伝道活動を行って以降急速に信仰が進んだ。これにより、キリスト教の影響を受けた多くの思想家や学者らが生まれた。その中でも地元においては福西志計子が女子教育の必要性を説き、1881年(明治14年)に岡山県初の女子中等教育施設となる私立縫製所を向町に設立し、1885年(明治18年)には文学科と合わせて順正高等女学校に改組した。後に県へ移管し、現在の県立高梁高校家政科へと受け継がれている。なお、1889年(明治22年)には県内最古の洋風建築物となる教会堂が設立されている。中等教育機関は他にも、1895年(明治28年)に県立の岡山県高梁尋常中学校(現在の県立高梁高等学校)が設立された。 …