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垂井町: 歴史

垂井町: 歴史

=== 先史 ===
縄文時代 ‐ 大滝野遺跡(府中地区)、長尾遺跡(岩手地区)、南森下遺跡 / 小黒見遺跡(南宮山塊東部)、朝倉遺跡 / 北野遺跡 / 日守遺跡(朝倉山麓北斜面)など縄文中期~晩期の遺跡が見つかっている。草創期~前期の遺跡は発見されていない。
弥生時代 ‐ 日守遺跡、朝倉遺跡、境野遺跡などの遺跡が知られており表佐地区では土器・石器が出土している事や隣接地の大垣市からもそれらが出土している事から大規模な農耕集団がこの付近に存在していたと考えられている。
4世紀後半 ‐ 親ヶ谷古墳が造営。
7世紀前半 ‐ 南大塚古墳が造営。
※現在150基ほどの古墳が見つかっている。

645年 ‐ 美濃国府が設置。
672年 ‐ 大海人皇子が不破郡家に至る。
717年 ‐ 元正天皇垂井に行幸。
739年 ‐ 真禅院が創建。
740年 ‐ 聖武天皇が不破頓宮、宮処寺、曳常泉に行幸。
790年頃 ‐ 最澄によって真禅院と南宮大社が神仏習合。
8世紀後半 ‐ 美濃国分尼寺が建立。
828年 ‐ 菩提寺が定額寺に列せられる。
880年 ‐ 在原業平が表佐に薬師寺の元となる館を建立。
939年 ‐ 承平天慶の乱の際朱雀天皇の勅令により南宮大社で平将門調伏祈願を行う。
1017年 ‐ 後一条天皇南宮大社に駅鈴を給す。
1051年頃 ‐ 前九年の役の際後冷泉天皇の勅令により南宮大社で安倍貞任追討祈願を行う。

1221年 ‐ 承久の乱で幕府軍が垂井宿に陣営。
1338年 ‐ 青野ヶ原の戦いがおこる。
1353年6月13日 ‐ 南朝方に京を追われた後光厳天皇は足利義詮と共に垂井へ有らせられる。
1353年 ‐ 美濃国守護土岐頼康によって長屋氏屋敷の隣に垂井頓宮が造営。
(襲撃情報のため一時的に揖斐小島の頓宮へ移動)

1353年8月25日 ‐ 後光厳天皇が垂井頓宮へ遷幸。
1353年9月3日 ‐ 足利尊氏の大軍が垂井に到着。
1353年9月17日 ‐ 京へ遷幸。
垂井曳山まつりは、この間に始められる。
1441年 ‐ 関東公方足利持氏の子春王丸・安王丸が垂井の金蓮寺で処刑。
1444年 ‐ 富島氏、斎藤氏の垂井合戦。
1473年 ‐ 一条兼良が垂井宿に泊まる。
1476年 ‐ 宗祇が訪れる。
1559年 ‐ 竹中重元が菩提山城を築く。

1593年 ‐ 伏見城築城の用材が表佐湊に陸揚げされる。
1600年 ‐ 関ヶ原の戦いがおこる。南宮山を中心に戦の舞台となる。垂井城は城主の平塚為広が討死のため廃城。南宮大社・伊富岐神社などが戦火で消失。
1600年 ‐ 竹中重門が竹中氏陣屋に居を移す。
1642年 ‐ 関ヶ原の戦いで焼失した、南宮大社を徳川家光が再建。
1691年 ‐ 松尾芭蕉が滞在。
1861年 ‐ 和宮親子内親王が小休する。

1868年 ‐ 神仏分離により南宮大社内の寺院・仏堂を統廃合し、朝倉山に真禅院が移築。
1872年 ‐ 垂井に郵便取扱所を設置。
1879年 ‐ 郡区町村編制法の岐阜県での施行により、行政区画としての不破郡が発足。郡役所が垂井村に設置。
1884年 ‐ 垂井駅が開業。
1884年 ‐ 島田警察署垂井分署が開署。
1889年7月1日 ‐ 町村制施行に伴い、垂井町が誕生。
1891年 ‐ 濃尾地震がおこる。
1897年 ‐ 郡制を施行。
1914年 ‐ 大谷池が竣工。
1919年7月29日 ‐ 垂井駅の相川橋梁で列車衝突事故がおこる。死者1名、重傷者8名。

1944年 ‐ 東海道本線の迂回線(下り本線)が完成して新垂井駅が開業する。旧下り線は撤去される。
1945年 ‐ 垂井が空襲をうける。
1946年 ‐ 南荒尾信号場‐関ケ原駅間で東海道線(上り)と並行し垂井駅として再敷設。
1954年9月10日 ‐ 岩手村、府中村、宮代村、表佐村が合併し、ほぼ現在の垂井町が形作られる。
1954年12月1日 ‐ 合原村を編入。
1959年 ‐ 伊勢湾台風の被害を受ける。
1962年7月31日 ‐ 「垂」の字を図案化した町章を制定。
1965年 ‐ 第20回国民体育大会の弓道競技会場として垂井町弓道場を使用。
1974年9月19日 ‐ 町の木を制定。
1980年3月23日 ‐ 町の花を制定。
1980年3月23日 ‐ スポーツの町宣言をする。
1985年 ‐ 不破北部防災ダム(明神湖)が竣工。
1986年11月1日 ‐ 新垂井駅が廃止となり、迂回線(下り本線)は貨物列車及び優等列車専用となる。
1989年 ‐ 第1回ふれあい垂井ピアが開催。
1991年 ‐ 美濃国府跡の発掘調査開始。
2004年 ‐ 住民投票により「西濃圏域合併協議会」から離脱。
2012年 ‐ 第67回国民体育大会の軟式野球会場として朝倉運動公園が使用。

== 人口 ==
町制当時から増加し続け、特に1960年代に行った工場誘致の影響により人口が激増し、その後も継続して増加していたが、2000年実施の国勢調査から減少している。

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Quelle: Text: Wikipedia – „垂井町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: ja:利用者:Monami, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons