内灘町: 歴史
内灘砂丘は加賀地方(石川県南部)における最初の石器発見地として知られており、また、大根布や宮坂、西荒屋の各砂丘からは縄文時代中期から古墳時代の石斧をはじめ、石包丁や石匙、鏃、玉製品が多く出土していることから、内灘町域には古くから人々が住んでいたとされる。
しかし、古代から中世へかけての内灘町の歴史は、未だに解明されていない事象が多く、内灘町が歴史資料に初めて登場したのは、平安時代の927年(延長5年)に発刊された『延喜式神名帳』に小濱神社が名を連ねてからであり、この地に式内社があったということから、集落が古い時代から形成されていたとされる。
江戸時代になると、加賀藩の支配下となり、今の内灘町にあたる集落群が金津組や十村組として組織された。
明治維新後から第二次世界大戦前、内灘町は遠洋漁業が盛んとなり、また、粟崎遊園が建設されるなど近代化が進んだ。
戦後、1952年(昭和27年)から砂丘地の大部分が在日米軍に接収され米軍砲弾試射場が建設された。ここで、反基地運動の先駆けとなる内灘闘争が起こった。1957年(昭和32年)に米軍は撤収した。この間に試射場の補償事業として公共施設や道路が建設された。
その後、沿岸漁業が不振になり、1957年(昭和32年)の国営砂丘地干拓事業の竣工、1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)の河北潟埋立事業による増田などの農業振興政策が進展した他、家内工業的繊維産業が発展した。
1962年(昭和37年)1月に町制を施行し、金沢市近郊という地理的条件から住宅団地造成が相次ぎ、金沢市のベッドタウンとして人口が急増し、教育、文化施設や都市発展基盤の整備が進められた。1970年(昭和45年)には火力発電所建設計画が持ち上がり、住民らによる激しい反対運動が展開された。
2024年1月1日、能登半島地震が発生。内灘町では震度5弱を観測した。1月8日現在、人的被害は報告されていないが、液状化現象などにより家屋や道路などに甚大な被害を及ぼしている。
1889年(明治22年)4月1日:町村制の施行により、向粟崎村、大根布村、宮坂村、黒津船地内、西荒屋村及び室村の区域をもって、内灘村が発足する。
1962年(昭和37年)1月1日:町制施行して、内灘町となる。『内灘町歌』を制定。
2024年(令和6年)1月1日:能登半島地震により家屋などに甚大な被害が及ぶ。