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御所市: 歴史

御所市: 歴史

=== 市名の由来 ===
「御所」という地名は、16世紀(戦国時代)の文書に「御所郷」として見られる。ただし、この土地をなぜ「ごせ」と呼ぶのか、なぜ「御所」と表記するのかについての定説はなく、以下のような諸説が提唱されている。

当地にある三室山の「三室」が「御室」、「御諸」、「御所」と転じたとする説。
三室山は孝昭天皇の陵墓(掖上博多山上陵)であると治定されている。これに関連して、孝昭天皇の「御諸(みもろ)」が「御所」に転じた、とも説明される。
当地には孝昭天皇の掖上池心宮があったとされ、これを「御所」と呼んだとして関連付ける説。
この地域を流れる川に関連する説
葛城川に5つの瀬があったとする説。あるいは「河瀬(ごせ)」が転じたとも。
この地域に5つの川(瀬)が流れていたから、とも。
当地に勢力を持っていた古代氏族・巨勢氏の「こせ」が転じた説。

古代には葛城(葛城国)と呼ばれた地域の一角にあたり、古代豪族葛城氏の本拠地である。また、現在の古瀬も古代豪族巨勢氏の拠点であり、巨勢寺塔跡などの遺跡が残る。市域には室大墓をはじめ古代遺跡も豊富であり、近年も2004年に極楽寺ヒビキ遺跡が、2009年には秋津遺跡が発見された。鴨都波神社、一言主神社、名柄神社、高鴨神社、葛木御歳神社など数多くの延喜式内社が所在する。記紀に建国神話(神武東征・欠史八代参照)とも関係しつつ記された掖上(わきがみ)という地名は御所市域の平坦部の総称とみなされており、神武天皇の橿原宮について、江戸時代には柏原が有力な比定地の一つとされていた。
郡の制度が整えられると、現在の市域の大部分は葛上郡(かつらぎのかみのこおり)に属した。葛上郡には一時期大和国の国府が置かれたらしい。古瀬付近は高市郡巨瀬郷に属したと考えられ、また柳原などは忍海郡に属した。

「御所」の地名が現れるのは16世紀である。この地域には葛城川を挟んで2つの環濠集落、西御所と東御所が存在したとされる。東御所は浄土真宗の寺院(現在の圓照寺)を中心とする寺内町の性格を有した。

関ヶ原の合戦後の慶長5年(1600年)、父の所領の一部を受け継いだ桑山元晴は、西御所に陣屋を構えて本拠地とした(御所藩)。御所の領主となった桑山元晴は、2つの集落を一体の町(「御所まち」)として整備した。桑山家は寛永6年(1629年)に無嗣断絶となり、御所藩は廃藩となった。御所町は幕府領となり、陣屋町としての機能を失ったが、平坦地(奈良盆地)と吉野の山間地の中継地として、また木綿織業や絞油業が発達した在郷町として繁栄した。
市域のうち倶尸羅村(現在の櫛羅)や松本村(現在の東松本・西松本)などは、延宝8年(1680年)以降大和新庄藩永井家の所領となった。永井家は定府の大名であったが、幕末期の文久の改革を受け、文久3年(1863年)に櫛羅に陣屋を設けて拠点とした(櫛羅藩)。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、現在の市域には御所町をはじめとする1町13村が編成された。1915年(大正4年)に櫛羅村など8村が合併して大正村を設立したが、それを除けば第二次世界大戦後の昭和の大合併までこの時の町村の枠組みが維持された。なお、1897年(明治30年)に郡制が施行され、葛上郡・忍海郡の範囲は南葛城郡となった。
当地は水平社運動発祥の地であり、当地出身の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らが1922年(大正11年)の全国水平社創立にあたった。
1958年(昭和33年)、御所町、葛(くず)村、葛上(かつじょう)村、大正村の4町村が合併するとともに市制を施行、御所市が発足した。
2022年6月23日、大阪地方検察庁特捜部は、御所市が発注した火葬場建設工事をめぐる入札妨害事件の関係先として市役所を家宅捜索した
。

1958年(昭和33年)3月31日 - 南葛城郡御所町・葛村・葛上村・大正村が合併して発足。市章を制定。これにより、南葛城郡が消滅。
1977年(昭和52年)4月1日 - 大字重阪字内谷の一部・大字内谷字内谷の一部を五條市に編入。

== 行政 ==
市長: 山田秀士

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Quelle: Text: Wikipedia – „御所市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Yanajin33, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons