大河原町: 歴史
藩政時代には奥州街道沿いの大河原村には大河原宿が設置され、宿場町を形成していた。
伊達政宗に従った大河原村出身の鉄砲組足軽が仙台城下町の東八番丁に居住したため、東八番丁は「大河原町」(仙台弁発音:おがらまち)との別称でも呼ばれた。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行にともない、大河原村、小山田村、大谷村、福田村の計4か村が合併して大河原町が発足した。
1917年(大正6年)から1923年(大正12年)にかけて、白石川の治水工事が行われ、流路の蛇行の解消や築堤が行われた。工事が完了する半年前に、大河原出身で、当時、東京商機新聞の社長だった高山開治郎がソメイヨシノ1000本余りを町に寄贈した。寄贈された桜は治水工事で作られた堤防に植樹され、住人の有志や柴田農林学校の生徒によって保護、育成された。これが現在、白石川を彩り「一目千本桜」と呼ばれる桜並木の起源である。
1956年(昭和31年)9月30日、金ヶ瀬村と合併し、新制の大河原町が発足した。
2000年代に入ると日本各地で市町村合併の動きが多く見られるようになる。大河原町も2002年(平成14年)12月25日に柴田町、村田町と共に合併協議会を設置し、合併に向かって協議を進めた。しかし結果として協議は決裂し、2004年(平成16年)度末をもって合併協議会は廃止された。協議決裂の原因は、新市名が柴田市に決まったことに加え、合併後の市役所仮庁舎も柴田町役場に決まったことで、大河原町民に合併協議への不信感が生まれたことが要因とされる。
「大きな川を有する原」という意味ではない。「多くの河が合流する(逢う)原」という意味である。即ち、「逢河原」から「大河原」へと変化した。その地に「大河原宿」が設置され、人、物の交流の場となり、今日の「大河原」の基礎がつくられた。