大月市: 歴史
=== 先史 ===
郡内地方は相模川水系をはじめとする河川の河岸段丘上に多くの考古遺跡が散在し、市域でも縄文時代の遺跡は80か所以上が確認されており、定住痕跡もみられる。
郡内では平坦地に乏しいため縄文後晩期には遺跡数が減少し、弥生時代以降の遺跡は極めて少ない。
律令制下には都留郡福地郷・征茂郷に比定されている。奈良・平安時代の遺跡では大月遺跡、原田遺跡、太田ヶ原遺跡などがあり、古墳時代から継続的に集落が営まれてきた。また、笹子川流域においては甲府盆地東端との交流も考えられている。
市域西部の波加利荘は平安時代に武蔵七党横山党の分流古郡氏の旧領で、鎌倉時代の建暦3年(1213年)に古郡氏が和田合戦に荷担して滅亡した後には宣陽門院領となり、武田氏や島津氏が地頭となっている。
戦国期に郡内領主として出現する小山田氏が都留市域に本拠を構え、大月市域でも郷村支配が確認されている。岩殿山は修験者からの信仰を集めた霊山で、小山田氏や国中地方の武田氏、江戸期には谷村藩主秋元氏らの保護をうけた円通寺があった。
市域東部の猿橋は百済の渡来人が架橋した伝説を伝え日本三奇橋の一つに数えられているが、交通の要衝でもある付近の地域呼称でもあった。
『鎌倉大草紙』に拠れば、応永34年には関東公方の足利持氏が武田信長追討のために一色持家を派遣し、猿橋の地で合戦が行われたという。また、戦国時代には大永4年(1524年)に武田信虎が猿橋を拠点に相模国奥三方(神奈川県津久井郡)まで出陣して北条氏綱と戦っている。郡内領主の小山田氏は武田に服属し、岩殿山に岩殿山城を築いている。
江戸時代には甲州街道の宿場が整備され、街道の45の宿場のうち12宿が現在の大月市内にあった。
江戸からの往来が盛んとなり、奇橋猿橋は荻生徂徠『峡中紀行』や歌川広重などの旅行者等によって紹介された。
山間部である郡内の特徴として田地は少なく、市域の生業は焼畑による畑作のほか宿場での駄賃稼ぎや林業などの山稼ぎや養蚕、農間余業として郡内織と呼ばれる織物生産を行い、谷村や上野原の市場へ出荷していた。
第二次世界大戦後期は日本を空襲するB-29が富士山から東京空襲のため東に向かう経路にあることから、陸軍の防空監視哨が複数設けられた。
1945年8月13日、終戦の2日前に市内の工場への空襲があり勤労動員されていた生徒らが被害を受けた。
織物産業は戦後一時期まで基幹産業であったが、現在では衰退している。
市内に勤務先は乏しく交通機関の整備により東京圏に汲み込まれ、勤労者の多くが東京都多摩地域の企業などに通勤している。
ただし2000年頃から長期不況による都心回帰現象により通勤者及び人口は減少しつつある。
1954年(昭和29年)
8月8日 - 北都留郡大月町、猿橋町、七保町、笹子村、賑岡村、初狩村及び梁川村が合併して、大月市が発足する。
9月8日 - 北都留郡富浜村を編入する。