豊後高田市: 歴史
=== 古代 ===
718年(養老2年)宇佐八幡神の応現とされる仁聞が六郷満山を開く(この年代は伝説的なものであるが、奈良から平安時代にかけて国東半島に寺院群が形成された)。
奈良時代末ごろ、森地区に宇佐弥勒寺の覚満が薬恩寺が創建する。隣接の佐野地区のカワラガマ遺跡から、薬恩寺のものと見られる瓦が出土している。
11世紀後期 内陸部の田染地区に宇佐神宮の最も重要な荘園のひとつと評価される田染荘や来縄郷が開かれる。
11世紀 同じく宇佐宮神宮寺の弥勒寺の荘園として都甲荘、草地荘、真玉荘、臼野荘、香々地荘が立荘される。
平安後期 六郷満山文化が栄え、大分最古の磨崖仏である熊野磨崖仏、真木大堂に現存する巨大な仏像群などが作られた。
1130年(大治5年)、国東半島の自然神を不動明王に見立てた長安寺・木造太郎天立像が作られる。
平安末期 現存する九州最古の木造建築物である富貴寺大堂が建立される。
1196年(建久7年) 高田重定により高田城が築かれたとされる。
中世の頃は、長安寺が六郷満山の中心となって、疫病・元寇の際に祈祷を行っている。国東半島の荘園に基盤を持つ、都甲氏や真玉氏などが戦場で活躍する。
南北朝時代には、宇佐神宮への御供米を供出するため、御玉・水取一帯に小野荘が開かれた。
15世紀頃から大友一門の吉弘氏が都甲地区を中心に土着(居城として屋山城が知られる)。戦国時代には吉弘鑑理、吉弘鎮信、高橋紹運、吉弘統幸、立花宗茂らを輩出する。
1579年(天正7年)田原親貫の乱の際に、佐野鞍懸城が主な戦場の一つとなる。
1600年(慶長5年)別府で挙兵した大友吉統に吉弘統幸が呼応し、石垣原の戦いで細川・黒田軍と戦って討ち死にする。この際、高田城主の竹中重利は西軍の立花宗茂に兵を供出していたが、黒田官兵衛が城に近づいた際に東軍についた。
1632年(寛永9年)能見松平家の松平重直が豊前国竜王(大分県宇佐市安心院町)に入封し竜王藩が成立。
1639年(寛永16年) 能見松平家が居城を高田に移し高田藩と称する。
1645年(正保2年) 能見松平家が木付藩に転封となり、高田藩は廃藩となる。
1669年(寛文9年)深溝松平家の島原藩の飛び地となり、島原領豊州陣屋が築かれる。
1712年(正徳2年)三河国吉田藩の牧野氏が延岡藩に転封となり、国東郡の一部として真玉町域・香々地町域などを編入する。
1762年(宝暦12年)大分でも最初の干拓事業である真玉透留新田の干拓が行われる。
1826年(文政9年)には、日田の代官塩谷大四郎の命により、広瀬久兵衛が中心となって呉崎新田を干拓した(完成は3年後の1829年)。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、現在の市域にあたる以下の町村が発足。
高田町・玉津町・来縄村・美和村・河内村・東都甲村・西都甲村・草地村・呉崎村・田染村・西真玉村・中真玉村・上真玉村・臼野村・岬村・三浦村・三重村
1907年(明治40年)4月1日 高田町・玉津町・来縄村・美和村が対等合併し、新町制による高田町となる。
1919年(大正8年)1月1日 岬村が町制施行し、香々地町となる。
1941年(昭和16年)
4月1日 西真玉村・中真玉村が対等合併し、真玉村が発足。
10月1日 前日より続いた豪雨により、三畑ダムが崩壊し、町部を含めた大きな災害が発生。長岩屋地区では、天念寺本堂・護摩堂が流されたり、流された児童を助けるため桑野訓導が命を失ったなどの話が伝わる。
1951年(昭和26年)4月1日 高田町・河内村・東都甲村・西都甲村・草地村が対等合併し、新町制による高田町となる。
1954年(昭和29年)
3月31日
呉崎村を高田町に編入。
真玉村・上真玉村・臼野村が合併し、真玉村が発足。
5月10日 高田町が名称変更し、豊後高田町となる。
5月31日 田染村を豊後高田町に編入。同時に豊後高田町が市制施行し、豊後高田市となる。
8月31日 香々地町・三浦村・三重村が対等合併し、香々地町が発足。
1955年(昭和30年)
1月1日 真玉村が町制施行し、真玉町となる。
3月31日 封戸村の水崎地区を豊後高田市に編入(封戸村の他地域は宇佐町・北馬城村と対等合併して宇佐町となる)。
2005年(平成17年)3月31日 豊後高田市(初代)・真玉町・香々地町が対等合併し、新市制による(2代目)豊後高田市が発足。