昭和町: 歴史
=== 先史 ===
甲府盆地底部は釜無・笛吹両河川の氾濫原であるため考古遺跡が乏しく、町域においても同様の傾向が見られる。
昭和町を含む山梨県は令制国の甲斐国にあたる。
平安時代後期には甲府盆地各地で荘園が成立し、町域東部の押越や紙漉阿原が鎌田荘に属していたと考えられている。
また、平安後期には源義清(形部三郎)・清光が甲斐へ土着し、子孫は盆地各地へ広まって甲斐源氏となった。
西条の義清神社は源義清の居館跡とする伝承が伝わっており、近在には義清の墳墓とされる義清塚がある。
戦国時代には川東郷の加藤氏、西条の西条氏が出現した。
また、戦国期には守護・武田氏による釜無川・御勅使川の治水が行われ、永禄3年(1560年)には現在の甲斐市竜王(旧中巨摩郡竜王町)に信玄堤が築堤され、釜無川流路が南に固定される。
町域においてもこの頃から開発が本格化したと考えられており、山之神には信玄堤・甲斐市西八幡の下川除・西八幡堤から連続する括の堤のほか、かすみ堤が築造されている。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に武田遺領を確保した徳川家康に臣従した武田遺臣の中には、町域を本領とするものも見られる。
江戸時代には11村が成立した(西条、西条新田、清水新居、河東中嶋、押越、紙漉阿原、築地新居、築地新田、飯喰、河西、上河東)。近世の九筋二領では、全村が巨摩郡中郡筋に属する。領主支配は幕領・甲府藩領を経て、享保9年(1724年)に甲斐一国の幕府直轄領化に伴い再び幕領となる。町域北東から南部にかけては駿州往還が通過し、河東中嶋村には宿駅も存在していたほか、築地新居村には釜無川を渡す渡船場があった。
近世段階においても釜無川の流路は不安定で、町域は水害被害を受け続けた。天保7年(1836年)には甲斐一国規模の天保騒動が発生し、町域の村々も一揆勢の被害を受けている。
町域には寺子屋が数多く存在し、明和年間には西条村の若宮八幡宮神主・山本忠告が経営した寺子屋があり、文化年間には同村の村医師・野呂瀬主膳が寺子屋を経営している。また、慶応年間には押越村の伊藤日遵が経営した寺子屋がある。
近代には、甲府盆地底部において流行した日本住血吸虫症の有病地となる。大正期に山梨県では農民運動が盛んになるが、町域でも農民組合の結成にいたる運動が興隆し、大正10年(1921年)に農事協和会が発足し、翌大正11年には小作人による押原農民組合が結成された。
第二次世界大戦後は、工業団地の造成や甲府市の中心部から近いことから宅地化が進み、人口は増加傾向にある。1971年(昭和46年)6月に昭和町となり、現在に至る。中央自動車道を境とした紙漉阿原東部は甲府市、旧玉穂町(現・中央市)にまたがる国母工業団地の一部にあたる。
戦後の山梨県においては、天野久知事時代の県勢振興計画で定められた県外企業誘致方針の一環として、田辺国男知事時代に工業団地の造成が推進され、甲府地区開発事業団が設立された。国母工業団地は1970年(昭和45年)に首都圏整備法に基づく都市開発区域として着工され、1973年(昭和48年)には第一期の分譲が完了した。国母工業団地に続いて甲西工業団地・身延工業団地など基幹工業団地の造成が行われ、昭和町では釜無川左岸の玉幡飛行場跡地にあたる築地新居・築地新田地区で、釜無工業団地が1976年(昭和51年)から山梨県土地開発公社を事業主体として造成された。
こうした企業からの税収により、財政には余裕があり、2019年度(令和元年度)まで、36年続けて地方交付税普通交付税の交付金を受けていない。
大型ショッピングセンターとして、2000年(平成12年)2月2日にイトーヨーカドー甲府昭和店、2011年(平成23年)3月17日にイオンモール甲府昭和が開店している。
昭和
1942年(昭和17年)7月1日 - 西条村・常永村が合併して昭和村が発足。
1971年(昭和46年)4月1日 - 昭和村が町制施行して昭和町となる。
1981年(昭和56年)11月 - 町制10周年を記念して「昭和町町歌」を制定。