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留萌市: 歴史

留萌市: 歴史

江戸時代まではアイヌと日本人が混在、明治期にニシン漁の北上に伴い漁村として日本人の村が市内に点在。
大正期に入り、各地に炭鉱(大和田炭鉱、豊平炭鉱、浅野炭鉱、達布炭鉱)が発見され隆盛をきわめる。昭和22年頃には留萌本線、羽幌線、天塩炭砿鉄道、留萠鉄道、達布森林鉄道など多くの鉄道路線が留萌駅に乗り入れしていた。

1960年代までの人口は4万人以上であったが、ニシン漁の衰退や炭鉱の相次ぐ閉山により減少に転じた。

1786年(天明6年) - 留萌神社の創建。
1867年(慶応3年) - ルルモッペ場所が箱館奉行直轄となる。
1869年(明治2年) - ルルモッペを留萌(るもえ)と命名する、山口藩支配となる。
1877年(明治10年) - 戸長役場を元町(川北)に建造する(留萌市の開基)。
1899年(明治32年) - 大和田炭鉱開業
1902年(明治35年) - 留萌郡礼受村(れうけ)を編入。二級町村制施行、留萌郡留萌村が発足。
1907年(明治40年) - 留萌郡三泊村(さんどまり)と合併し、改めて留萌郡留萌村が発足。一級村制施行。
1908年(明治41年) - 町制施行し留萌町となる。
1910年(明治43年) - 留萌 - 深川間に鉄道開通。
1914年(大正3年) - 増毛支庁が現在の留萌市に移り、留萌支庁と改称される。
1918年(大正7年) - 留萌町で初の中等教育を実践する留萌実科女子学校が開校する。
1919年(大正8年) - 北炭豊平炭鉱開業。
1919年(大正9年) - 国内最北の普通中等教育機関である留萌高等女学校開校。
同年 - 留萌家政学校開校
1921年(大正10年) - 留萌 - 増毛間に鉄道開通。
同年 - 留萌港築港費として生命保険会社向けに年利10%で町債249万5千円を発行、石炭、木材の積出港として整備を始める。
1923年(大正12年) - 国内最北の中学校である旧制留萌中学校が開校する。
1924年(大正13年)8月1日 - 留萌実業新聞社社屋、天塩サイダー本社工場等焼失
同年8月31日 - 留萌日日新聞社設立、9月1日から発刊
同年9月19日 - 留萌実業新聞杯野球大会(留萌町初の硬式野球大会)が開催される。
1925年(大正14年) - 折からの不況により町債のデフォルトを蓬莱生命、帝国生命、朝日生命、太陽生命、福寿生命、国光生命、常盤生命に宣言、社会問題になる。
同年 - 留萌実科女子学校、留萌家政学校、留萌高等女学校が統合、新「留萌高等女学校」になる。
1927年(昭和2年) - 留萌本線留萌-大椴間開業
1928年(昭和3年) - 留萌鉄道桟橋会社を京橋区銀座7-5に設立、留萌築港線開業、留萌駅から留萌港までの鉄道輸送が始まり、国内外との交易量が飛躍的に拡大する。
1929年(昭和4年) - 留萌鉄道が恵比島駅から太刀別駅の留萌炭鉱線を開業し、浅野、昭和炭鉱から留萌港までの石炭輸送を本格的に開始する。
1931年(昭和6年) - 羽幌線大椴-古丹別間開業
1940年(昭和15年) - 古丹別森林鉄道古丹別線開業、古丹別の木材の羽幌線、留萌築港線経由の留萌港への積み出しが始まる。
同年 - 羽幌森林鉄道羽幌奥羽幌間開業、羽幌線、築港線経由での留萌港への木材積出しが急増。
1941年(昭和16年) - 天塩炭鉱鉄道留萌-達布間が開業、天塩炭田の石炭の留萌港から本格的な積み出しが始まる。
同年 - 羽幌炭鉱鉄道築別炭砿線開業、築別炭砿からの羽幌線、築港線経由の留萌港からの石炭の本格的な積み出しが始まり、留萌港周辺に運送会社、商社、炭鉱会社の支店が集まる。
1943年(昭和18年) - 古丹別森林鉄道三毛別線開業、三毛別の木材の羽幌線、留萌築港線経由の留萌港への積み出しが始まる。
1944年(昭和19年) - 国内最北の市町村立中学校である旧制留萌町立中学校開校。
1945年(昭和20年) - 達布森林鉄道、天塩炭鉱鉄道達布-滝下間開業、小平地方の木材の留萌港からの本格輸送(天鉄、留鉄築港線軽油)が始まる。
同年 - 停戦後の8月22日、留萌沖で樺太引き揚げ船三隻が撃沈される(三船殉難事件)。停戦後、スターリンがトルーマンに「留萌と釧路を結ぶ線以北にソビエト軍を進駐させる」という提案をしたが、トルーマンは拒否した。しかし、トルーマンが8月18日に拒否した後、極東ソ連軍総司令官A・ワシレフスキーは、第一極東方面軍司令官K・メーレツコフに北海道北部(釧路-留萌以北)と千島列島南部を8月19日から9月1日までの間に占領するよう命令している。
1947年(昭和22年)10月1日 - 市制施行し留萌市となる。
1948年(昭和23年) - 留萌市立千鳥学院高等学校開校。
1949年(昭和24年) - 羽幌炭鉱鉄道上羽幌線曙-三毛別間開業、羽幌炭鉱のからの留萌港への石炭積み出しが急増、留萌駅から魚の行商に出かける戦争未亡人が大量に表れる。
1954年(昭和29年) - 留萌市立高校閉校。
1930年(昭和30年)3月17日 - 大和田炭鉱大和田鉱業所でガス噴出事故。5人が窒息死。
1956年(昭和31年) - 三井物産の取り扱いによる数の子の留萌港での輸入および市内での加工が始まり空前の大ヒットとなる。
1958年(昭和33年) - 達布森林鉄道廃止、天塩鉄道を経由せず留萌港までのトラック輸送に転換、天塩鉄道の貨物事業が赤字に陥る。
同年 - 元町大火により旧市街のほとんどが消失し、市の経済に深刻な打撃を与える。
1959年(昭和34年) - 大和田炭鉱閉山、失業者が市内に急増する。
1960年(昭和35年) - 三井物産によるタラコの国内移入加工が始まり空前の大ヒットとなる。
1961年(昭和36年) - 古丹別森林鉄道、輸入材の急増により廃止、留萌港の利用が急減する。
同年 - 留萌市立千鳥学院高校閉校。
1963年(昭和38年) - 羽幌森林鉄道廃止、羽幌地方の木材の留萌駅、留萌港利用が無くなり、留萌の木材加工業が衰退する。
1965年(昭和40年) - 市内で初の看護婦養成機関である留萌医師会看護高等専修学校が開校。
1966年(昭和41年) - 留萌地方初の工業高校である留萌工業高等学校が開校。
1967年(昭和42年) - 炭鉱の閉山により貨物輸送が停止した天塩炭鉱鉄道が廃止され、子会社の天鉄バスによるバス輸送に転換。
1969年(昭和44年) - 留萌鉄道営業休止、旅客輸送は沼田町営バスに転換。
1970年(昭和45年)羽幌炭鉱鉄道廃止、留萌駅の乗降客が急減、留萌港の取り扱いも急減し、留萌市から企業の撤退が相次ぐ。
同年 - 豊平炭鉱閉山、再び市内に失業者が急増する。
1971年(昭和46年) - 留萌高等学校、夏の甲子園出場(0-1 県立岐阜商業高校)
1972年(昭和47年) - 本市出身の若松勉(留萌東光小-留萌中-ヤクルト)が道内出身者初の首位打者を獲得。
1977年(昭和52年) - 開基100年。
同年 - 若松勉が2度目の首位打者獲得。
1987年(昭和62年) - 国鉄羽幌線廃止、留萌本線が盲腸線となる。
1997年(平成9年) - 開基120年。
1998年(平成10年) - 留萌工業高校が閉校。
同年 -本市出身の大高友美(クロカン)が長野オリンピック出場。
1999年(平成11年) - 留萌医師会看護高等専修学校が閉校。
2002年(平成14年) - 本市出身の大高友美(クロカン)、武山香織(スノーボードハーフパイプ)がソルトレークオリンピック出場。
2004年(平成16年) - 増毛町・小平町と法定の「留萌南部三市町合併協議会」を設置。
2004年(平成16年) - エフエムもえるの開局。
2005年(平成17年)1月12日 - 合併協議会の解散が決まる。
2006年(平成18年) - 本市出身の五十嵐亮太(ヤクルト)と本間満(ダイエー)がオールスターゲームに投票で選出され、市内出身者が初めて複数名同時選出された。
同年 - 本市出身の大高友美(バイアスロン)がトリノオリンピック出場。

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Quelle: Text: Wikipedia – „留萌市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: tuyainu, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons