下諏訪町: 歴史
下諏訪町を含めた諏訪地域は近くに全国でも数箇所しかない石器の材料となる黒曜石の一大産出場である和田峠(町北部から長和町にかけて採掘跡がある)の恩恵により縄文時代から人の居住が見られた。この地域で産出された黒曜石は、関東一円の遺跡から見つかっており、黒曜石の生産に関しては一説によれば日本列島内で最も先進的な地域だったらしい。付近の茅野市には多くの縄文遺跡があり、同市の棚畑遺跡からは国宝に指定された土偶(通称「縄文のビーナス」)が出土している。弥生時代には、出雲などの西国から来た渡来人が稲作文化を諏訪へ伝えた。
古代の律令制下において、町域は信濃国諏訪郡の一部であった。続日本紀によると、奈良時代の一時期、諏訪地域は信濃国から分立し、諏方国として1つの国をなしていたが、約十年で信濃国に復された。
戦国時代初期までは現在下諏訪町にある諏訪大社下社方と諏訪市および茅野市にある上社方が闘争状態となる。下社方の金刺氏は上社方の諏訪氏に対して劣勢となったため、上社方の内紛に付け入って復権を図るため戦いを仕掛けるがこれに失敗。最後の当主は甲斐の武田信虎を頼って落ち伸びた。信虎は甲斐国内を統一すると諏訪地方への最初の侵攻を開始するが、金刺氏の失地回復も大義名分のひとつであった。その後、晴信(信玄期)に本格化した信濃侵攻における諏訪攻めによって諏訪とともに武田家に占領される。
諏訪氏の高島藩が支配していた江戸時代の初期に街道整備が行われ、中山道と甲州街道を合流させるため、これまで通っていた東山道の道筋を一部改定し、合流点に下諏訪宿を設けた。甲州街道と中山道の分岐であること、北に和田峠、西に塩嶺峠と中山道有数の難所を控えることから、宿場に泊まる旅人が多く大いに賑わった。温泉が湧出している数少ない宿場町のひとつだった。貞享年間は飢饉が続いており、農民は困窮していたが高島藩主が年貢を下げたためなんとか落ち着いた。
明治維新後、萩倉地区の山間部で水車を利用した製糸業が始まる。明治36年の中央線開通により平野部に工場が移転し、諏訪地方の中で最も早く器械製糸が始まった。1910年代から1920年代にかけて隣の岡谷市が資本の集中に成功し、製糸業の中心地として栄えた。その影響が町内にもおよび、諏訪湖周辺は生糸工場が立地し山の裾野では養蚕に必要な桑の栽培と養蚕が盛んであった。
1930年代初頭、日本労働組合全国協議会の一般使用人組合教育労働班が長野県内の事業所に浸透。彼らが小学校教員に働きかけを始めた。この過程で1932年(昭和7年)7月、下諏訪小学校の御真影が盗まれて、校長が身代金を恐喝される事件が発生。捜査の過程で二・四事件が表面化していくこととなった。
太平洋戦争中は大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、それが現在の東洋のスイスと呼ばれるこの町の精密工業の礎となっている。三協精機(後の日本電産サンキョー、現:ニデックインスツルメンツ)によるオルゴール製造で生産高が一時世界一となり、また隣の諏訪市に本社を置くセイコーエプソンは当時の移転があったからこそ、現在の姿があるとされている。
高度経済成長期には諏訪湖の汚染と富栄養化が顕著となり、全国で下位クラスの汚い湖になってしまったが、現在は浄化運動が行われ透明度は改善傾向にある。平成の大合併は諏訪地域にも影響を及ぼし諏訪地域全体で合併する構想も出たが、現在はなくなり自立の道を模索している。
1871年(明治4年) - 廃藩置県により、高島県。後に筑摩県に編入する。
1874年(明治7年)10月9日 - 諏訪郡下諏訪町(村格)、友之町(村格)、下原村、久保村、武居村、富部村及び高木村の区域をもって、諏訪郡下諏訪村が発足する。
1876年(明治9年) - 筑摩県の廃止により、長野県に編入する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、諏訪郡下諏訪村の区域をもって、諏訪郡下諏訪村が発足する。
1893年(明治26年)6月30日 - 町制施行して、下諏訪町となる。
1958年(昭和33年) - 岡谷市の区域の内、東町地籍及び東山田地籍の区域を編入する。
1983年(昭和58年) - 諏訪湖の面積を分割する。