志賀町: 歴史
=== 信仰史 ===
=== 港の歴史 ===
==== 先史時代 ====
新生代新第三紀中新世 - 関野鼻一帯にて関野鼻石灰質砂岩層の形成期。その後、岩層に生じた地表からの亀裂や節理を通って浸み込んだ地下水の長い年月にわたる容食性侵食作用により、現存する3つのドリーネが形成される。日本列島では新生代に形成されたドリーネは稀有である。
旧石器時代 - 志加浦地区の赤住(あかすみ)にて赤住遺跡の形成期。
縄文時代 - 西増穂地区の酒見(さかみ)にて酒見遺跡の、福浦地区福浦港にて福浦遺跡の形成期。土田地区の舘開(たちひらき)にて舘開城跡(陥穽遺構)の形成期の始まり(古墳時代の遺構もあり)。中甘田地区の中甘田にて甘田タイ遺跡の形成期の始まり(遺構は平安時代まで断続)。堀松地区の堀松にて、県内最大規模の貝塚である堀松貝塚の形成期。堀松地区の神代(かくみ)地区にて神代貝塚の形成期。
弥生時代全般 - 下甘田地区の穴口にて穴口遺跡(集落遺構)の形成期。
弥生時代 - 富来地区の富来高田(とぎ たかた)にて高田遺跡の形成期。土田地区の徳田にて得田氏館跡(竪穴建物跡等の遺構)の形成期の始まり(古墳時代の遺構もあり)。
弥生時代後期 - 加茂地区矢駄の鹿首(かしくび)にて鹿首モリガフチ遺跡(水田・集落遺構)の形成期。
弥生時代末期 - 稗造地区の東小室(ひがしおもろ)にて東小室ボガヤチ遺跡(竪穴建物跡等の遺構)の形成期の始まり(遺構は室町時代まで断続)。
有史以前 - 高爪山は神体山として信仰を集めていたと考えられる(高爪信仰の萌芽)。近海航路の目標物であった高爪山は漁民からは航海神として、また、農耕が始まると大福寺・酒見川流域の農民から農耕神として崇められた。
===== 飛鳥時代 =====
7世紀頃 - 西海地区の西海千ノ浦(さいかい ちのうら)にて、二子塚古墳群(千浦二子塚古墳群)が造営される。
大宝2年(703年) - 社伝によれば、高爪山で高爪神社が創建(中世から近世にかけて隆盛する高爪信仰の始まりの一つ)。
天平勝宝2年(750年) - 社伝によれば、富来地区で冨木八幡宮(現在の冨木八幡神社)が創建されたとするも詳細は不明で、建保5年(1217年。cf. 1217)の創建とも考えられる。
宝亀3年(772年) - 『続日本紀』の伝えるところでは、日本滞在を終えて帰途に就いた渤海使の船が時化に遭って難破し、外浦海岸に漂着したため、朝廷の指示を受けて遭難者を福良津(ふくらのつ)に安置したという。福良津は福浦(現・志賀町福浦)の船着場(福浦港の前身)に比定されており、文献初出である。
延暦23年6月27日(804年8月6日) - 北路で来日する渤海使の寄航・入国指定地に定められた福良津に、桓武天皇の勅によって客院「能登客院」が設けられたと『日本後紀』に記述あり。「鴻臚館#平安京の鴻臚館」も参照のこと。
承和元年(834年) - 山城国の松尾神社(現在の松尾大社)から勧請された松尾神社が末吉村(後世の羽咋郡堀松村末吉、現・志賀町末吉)に建立されたと伝えられる。本殿は一間社流造で建立年代は永禄2年頃(1559年頃。室町時代末期)と推定される。cf. 1980.
元慶7年10月29日(883年12月2日) - 『日本三代実録』のこの日の記録に、渤海使が北陸道に来着した場合、帰国に使う船を修理もしくは造船する際には必ず福良泊(ふくらのとまり)の木材を用いるようにと定め書きされており、この時代には福良にあった津(国司管理下の公的な港)が整備されて、朝廷指定の造船施設を備えた、律令制下の北陸道で唯一の泊(とまり。中央政府直轄の宮港)になっていたことが分かる。
長暦4年(1040年) - 堀松近郊の末吉村(すえよしむら)にて、近江国の日吉神社から勧請した山王社(現在の末吉日吉神社)が創建。当社の祭神は、室町時代後期の福野潟開拓時代 (cf. 1577) を迎えると開拓の守護神として崇められることになる。
寿永2年(1183年) - 5月11日(西暦6月2日)に起こった倶利伽羅峠の戦いに敗れた平維盛の重臣・平式部大夫が、その後間もなく志賀村(現・志賀町町)に落ち延びて隠棲する。平式部大夫を祖とする「平家(ひらかけ、たいらけ)」はその後、中能登の在地土豪に成長し、応永15年(1408年)頃には能登国守護となった畠山満慶に召し出されて能登畠山氏の被官となる。後世、平家は江戸幕府天領地13カ村を治める大庄屋になる。cf. 1577(平式部館の落城)、1615(平家の復帰)、江戸中期(平家庭園)。
承元2年2月(1208年2月か3月) - 高爪山六所宮(現在の高爪神社)にて、今に伝わる木造薬師如来坐像が本地仏として造立される(江戸時代にいう「能登十二薬師」の一つである「高爪薬師」。在銘仏として県内最古で、県指定有形文化財)。
建保5年(1217年) - 社伝によれば、富来村を始めとする近隣8ヵ郷の総社として、鶴岡八幡宮から勧請した冨木八幡宮(現在の冨木八幡神社)の祠が建立される。以来、広く信仰され、中世以降は神仏習合して神宮寺八幡寺となることで隆盛期を迎える。
建治元年9月9日(1275年9月29日) - 高爪山六所宮(現在の高爪神社)で六柱の神(高爪大明神・気多大明神・白山妙理権現・伊須留岐権現・若王子・八幡大菩薩)の本地仏を表した御正体(みしょうたい)である木板彩画六所宮懸仏(国の重要文化財に指定)が造立・奉納される。cf. 1964.
応永年間(1394–1427年) - 能登国守護・能登畠山氏の本拠・七尾城の出城として、堀松庄の末吉村(後世の羽咋郡堀松村末吉、現・志賀町末吉)の北にある山(末吉城山)に末吉城(すえよしじょう)が築かれる(応仁の乱[1477年]後に中世城郭として完成)。
宝徳元年(1449年) - 土田地区の谷屋にて、長龍寺の建立。
永禄元年(1558年) - 上棚(うわだな)にて、真宗大谷派・来入寺(らいにゅうじ)の建立。
天正年間(1573–1592年)
月日不明 - 末吉城が能登畠山氏の家臣・河野肥前の居城となる。
月日不明 - 社伝によれば、堀松の庄21ヶ村の総社として堀松八幡神社が創建。
天正4- 5年(1576–1577年) - 戦国大名・上杉謙信が能登国に侵攻し、当地域の城・館(富来城、末吉城、木尾嶽城[きおだけじょう]、平式部館[ひらかしきぶやかた])を含む諸城・諸館を落とす。天正5年に決着する七尾城の戦いによって能登畠山氏は滅亡する。このとき、兵火を被った高爪山六所宮(現在の高爪神社)では多くの社殿や寺宝、記録等が焼失し、六所宮は一時衰退する。同じく冨木八幡宮(現在の冨木八幡神社)も大きな被害を受けて一時衰退する。
天正5年(1577年)頃 - 助太夫家が福野潟(ふくのがた。現在の志賀町福野周辺)を干拓して田畑に変える開墾事業に着手。事業は代々続けられ、「潟の主」とも呼ばれる千石百姓、豪農になった助太夫家には実際千石に迫る持高があったという。
永禄2年頃(1559年頃) - 松尾神社が改修され、現存する本殿が新築される。
室町時代 - 肥前国大村藩(長崎県大村市)の船持武太夫の息子が乗った船が大島(おしま)沖で難破し、乗組員全員が死亡した。武太夫は供養のために肥前から石を運ばせ、大島の地に石造五輪塔である石積六角地蔵塔を建てた。今日では大島諸願堂と呼ばれている。
===== 安土桃山時代 =====
近世初期 - 重税に苦しむ若狭国大飯郡高浜村(現・福井県大飯郡高浜町)の漁民が漁船に乗って米町川(こんまちがわ)河口近くの海岸部にたどり着き、そのまま移住して高浜村(現・志賀町高浜町)を興す。cf. 1990.
天正9年(1581年) - 前田利家が織田信長より能登国の支配を命じられ、能登へ入部。
天正13年(1585年) - 七尾城の戦いで兵火を被って以来衰退していた高爪山六所宮(現在の高爪神社)が前田利家によって再興され、以後、歴代加賀藩主・前田家の庇護を受けて社領の寄進や社殿の造営が行われ、大いに栄えることとなる。 …