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大府市: 歴史

大府市: 歴史

=== 原始 ===
現在の市域の大部分は、かつて衣ヶ浦と呼ばれた遠浅の海の一部であり、魚介類が豊富であったことなどから先史時代より人々が集住していた。市域最古の遺跡とされるのが旧石器時代の共栄遺跡(共栄町)であり、石鏃などの打製石器や剥片石器が出土している。
縄文時代になると、衣ヶ浦沿岸の丘陵部には桟敷貝塚(朝日町)をはじめとする多くの貝塚がつくられた。
弥生時代以降の遺跡としては子安神社遺跡(共和町)が最も規模が大きく、弥生土器や土師器などが出土した。

古墳時代になるとこの地方にも大和政権の支配が及び、尾張国造の支配域である尾張国の一部となり、衣ヶ浦を挟んで隣国の三河国と接した。さらに8世紀以降は知多郡に編入された。当時の遺跡としては高山古墳(中央町)が確認されているが、古墳の規模などの詳細は不明である。
飛鳥時代から奈良時代の遺跡としては惣作遺跡(横根町)がある。この遺跡からは多数の製塩土器が出土し、製塩が行われていたと推測される。また
729年(天平元年)には、行基が円通寺(共和町)を創建したと伝えられる。
平安時代になると、市域には尾張国衙領や熱田社の荘園が存在した。また窯業生産も盛んであったようで、市域にある羽根山古窯群(横根町)をはじめとする古代から中世にかけてのおよそ100の古窯址群は、猿投山古窯址群に含まれる。の特に吉田第1号窯・吉田第2号窯(ともに吉田町)で生産された瓦が鳥羽上皇の宮殿に用いられたことが分かっている。その他市内には、814年(弘仁5年)に弘法大師(空海)が三河国から衣ヶ浦を渡って尾張国に上陸した際に宿泊したと伝えられるおしも井戸(朝日町)という場所がある。

鎌倉時代になると尾張の国にも鎌倉幕府の支配が及び、小野氏、中条氏、名越氏などの北条氏一門が守護に任じられて各荘園にも地頭も設置された。現在の長草天神社(長草町)付近には、この地の地頭藤田民部の長草城があった。
なお、市内の芦沢の井(吉田町)は、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将平景清が居住した地と伝えられている。
室町時代になると知多郡は三河国守護一色氏の支配下に入った。そして15世紀後半に水野貞守が緒川城を築城すると、市域は水野氏の支配下に入った。1467年(応仁元年)に応仁の乱が起き、日本は戦国時代を迎えた。戦国時代後期、尾張の織田信秀が守護の斯波氏や守護代の清洲織田氏をしのぐ勢いとなって実権を握った。水野氏との衝突が起こったが、後に両者は和睦し、知多半島北部は水野氏の支配下にとどまった(「水野氏#織水同盟と滅亡」参照)。なお延命寺(大東町)には水野氏に関連する書類等が保管されている。また永禄年間には駿河の今川義元の勢力が尾張国にも及び、1558年(永禄元年)から1561年(永禄4年)にかけて、信秀の跡を継いだ織田信長と今川義元、そして水野信元と松平元康(後の徳川家康)が市内を流れる石ヶ瀬川を挟んで衝突した(石ヶ瀬川の戦い)。その間の1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いで今川義元は敗死しており、織田・水野氏は松平元康と和睦し(清洲同盟)、尾張国は統一された。なお、当時市域には追分城や横根城が築城され、現在は首塚などが遺っている。
また京都の公家七津大夫(ななつたゆう)(滝本中納言)が応仁の乱の戦火を避けて大清水(桃山町)付近に移住し、村を「大夫」と名付けたとされ、現在の市名の由来とも伝えられている。
その他、室町時代の遺跡としては吉加波入道によって1397年(応永4年)に築城された吉川城址(吉川町)や15世紀末に築城された丸根城址(共栄町)があるが、遺構などは遺されていない。

江戸時代、市域は尾張藩の支配に属した。1608年(慶長13年)には江戸幕府による全国的な検地が実施され、市域では半月村・横根村・吉川村の検地帳が現存している。またこの頃になると衣ヶ浦は境川や逢妻川の堆積によって埋め立てられ、新田開発の一環として大規模な干拓が行われた。また両河川が天井川になり排水が困難になったことから、新たに五ヶ村川が開削された。こうして衣ヶ浦は大幅に縮小され、現在とほぼ等しい河川の流路が形成された。また丘陵部でも溜池が盛んに建設された。
1782年(天明2年)に鳴海陣屋(現:名古屋市緑区)が設置されると、市域の農民はこの配下に入り、年貢などを納めた。特に東海道の鳴海宿に近接した村は、助郷役なども課された。当時から市域では人の往来が盛んであり、東浦街道などの街道も整備され、道しるべの石柱なども現存している。また、隣りの刈谷藩とも交流があった。

明治維新後、尾張藩は名古屋藩になり、鳴海陣屋は廃止された。さらに明治4年の廃藩置県によって名古屋藩から名古屋県となり、知多郡はここに編入された。しかし三河の10県が統一して額田県になると、知多郡はそちらに繰り入れられた。明治5年に両県は合併して愛知県となった。
明治22年以降、市域の諸村が合併して「大府村」となり、初代村長には鈴置善平が就任した。
明治19年には武豊線が開通し、翌年には大府駅が営業を開始した。さらに翌年には東海道本線が開通し、大府は東海道本線と武豊線の分岐点として、交通の要衝となった。
大正4年には町制を施行して「大府町」となり、初代町長には深谷甲太郎が就任した。
第二次世界大戦期には、現在の豊田自動織機長草工場付近に三菱航空機知多工場があり、陸軍の四式重爆撃機「飛龍」を生産した。その工場の北西には出荷用の飛行場が建設され、国鉄大府駅との間には専用鉄道が敷設されていた。三菱は当時の大府町と隣接の上野町にまたがる丘陵地帯に、およそ570万坪の土地を取得した。知多丘陵地の山を削り、谷を埋める30か月にわたる大工事の末、1944年4月に長さ1,300mの滑走路に総組立工場と整備工場が付属した三菱航空機知多工場が完成した。さらに、1944年12月より、上野町大字富木島に航空本部の飛行場拡張工事が実施され、近隣集落から多くの勤労奉仕者が出た。
市域は大きな空襲を免れて終戦を迎えた。その後、大府飛行場の一部は農業開拓者の農場に転換され、残り6万坪も旧大府町の斡旋により、1952年2月に豊田自動織機製作所が買い受けた。
戦後、愛知用水が開削されると、市域の丘陵部では園芸が盛んになり、名古屋市に生鮮野菜を供給する近郊農業の一大拠点へと変貌した。さらに工業の面でも豊田自動織機や住友重機械工業をはじめとする大企業のほか中小企業の誘致が推進され、高度経済成長期を経て中京工業地帯の一翼を担う工業都市へと成長を遂げた。
その一方で宅地造成も積極的に推進され、昭和45年に市制施行した。また、昭和49年施行の第1次総合計画により「健康都市」が市の都市目標として定められ、さらに昭和61年に「健康都市宣言」をし、平成18年には健康都市連合に加盟した。現在は東浦町と共同でウェルネスバレー構想を掲げ、医療サービスやスポーツなど健康関連諸分野の充実化を推進している。2008年(平成20年)10月1日にはレジ袋の有料化を実施した。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „大府市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 村澤裕介, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons