Heimatgeschichte · Nabari ·

名張市: 歴史

名張市: 歴史

万葉の昔から宿駅として開け、壬申の乱に際して大海人皇子が東国へ逃れる際にも当地を経由した。
墾田永年私財法の施行以降、東大寺の荘園として人口の増加が始まり集落として発達しはじめた。その後自治勢力が武装し「黒田の悪党」と呼ばれ荘園支配から逃れようと地主に対抗したことで中世日本史に名を残す地域である。荘園支配に抵抗してはいたが、実際に東大寺との関係は深く、年中行事であるお水取りでは当地で伐採された木材が使用されるなど名残を残す。しかし、宗教文化が実際にこの地に花開いているわけではなく、華々しく飾られた今風の宗教施設のほかは山村地域に枯れた風景を彩る山寺が散見されるのみとなっている。
悪党は独特の戦闘知識や薬学体系を背景に、後に忍者と呼ばれる存在となる。その中でも伊賀忍者の名前はあまりにも有名であるがゆえに、発祥の地は北に隣接する伊賀市であると誤解を受けているが、実際は伊賀地域全体に広く忍者の生活・活動した跡が見られる。伊賀忍者の技・術・道具などの展示は赤目四十八滝入り口付近にある展示施設にて行われている。
1579年(天正7年)から1581年(天正9年)にかけ、忍者による陰謀が発端となり織田信長親子による伊賀忍者殲滅作戦、天正伊賀の乱が二度にわたって展開され、名張の地は文字通り焦土と化した。現在は「天正乱れ太鼓」などの伝承により当時の様子が物語られている。
現在の街は、伊勢参りの宿場町が原型。明治以降も1922年に伊賀上野駅からの局地的な地方鉄道が通じただけであったが、1930年に参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)が開通して、大阪方面との交通の便が向上して、発展の礎となる。1954年(昭和29年)3月31日に市制施行。
その後、大阪方面への通勤者のために大規模な団地が形成され、それに呼応するように郊外型の大型商業施設も相次いで開店した。このため、伊賀市(旧上野市)とともに伊賀地方の商業の中心となっている。

1954年(昭和29年)3月31日 - 名賀郡名張町・滝川村・箕曲村・国津村が合併して発足。
1957年(昭和32年)7月1日 - 名賀郡古山村の一部(大字南)を編入(古山村の残部は上野市(現伊賀市)に編入)。
1961年(昭和36年)3月28日 - 当市葛尾地区の公民館で開かれた懇親会で出されたワインに毒物が混入され、参加者17人が中毒を起こし、そのうち5人が死亡する事件が発生。被疑者が逮捕され死刑判決が確定するが冤罪が疑われる(名張毒ぶどう酒事件)。
1964年(昭和39年) - 高北新治郎が名誉市民となる。
1965年(昭和40年) - 桔梗が丘団地の入居開始。
1973年(昭和48年) 7月 - 国道165号開通
1978年(昭和53年)10月 - 美旗古墳群が国の史跡に指定
1990年(平成 2年) 9月 - 人口が7万人突破
1992年(平成 4年)10月 - 名張藤堂邸が一般公開
1994年(平成 6年)10月 - 人口が8万人突破
2003年(平成15年) 2月 - 伊賀6市町村との合併可否を問う住民投票を実施。結果は反対多数で協議会から脱退。

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Quelle: Text: Wikipedia – „名張市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: misijp Camera location34° 37′ 16.08″ N, 136° 05′ 46.08″ E View this and other nearby images on: OpenStreetMap 34.62113, CC BY-SA 2.0 – Wikimedia Commons