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川南町: 歴史

川南町: 歴史

平坦で乾燥した丘陵地が広がる川南原は、水がなく耕作に適しない地域であったが、江戸時代より讃岐国や周辺地域の住民を受け入れての小規模な新田開発が行われていた。明治時代には高鍋藩の士族による用水路を築いての新田開発や、県内外から農民を集めての大規模農場開発が行われたが、丘陵のほとんどは未開発のままであり、川の水をめぐっての争いが絶えなかった。
1911年に第13代宮崎県知事有吉忠一により川南原の開発事業が計画され、1925年には宮崎県より国に対し、国営大規模開墾事業を求める申請が出された。1927年には政府が大規模開墾計画を策定し、全国の500ヘクタール以上の開墾可能地を国営で設計・開拓することとなったが、全国からの希望が殺到し候補選定は難航した。1938年12月、1939年からの5か年事業として「川南原国営開墾事業」の実施が閣議決定されたが、1944年に太平洋戦争激化のため中止となった。
一方、鹿児島県内に作られていた軍馬育成所が宮崎県内に移され、1908年に高鍋町に軍馬補充部高鍋支部(現在の宮崎県農業大学校)が開設された。軍馬の飼料耕地や放牧地は川南の丘陵地の多くを買収して設けられた。4000ヘクタール以上の広大な軍用地が川南原に設けられたことは、開拓や灌漑事業の遅れをもたらした。1941年秋には満州の白城子陸軍飛行学校から宮崎の新田原基地に挺進連隊(空挺落下傘部隊)の練習場が移転され、川南の広大な軍用地が降下練習の用地となったが、多くの開拓者の移転をもたらした。
太平洋戦争が終わると、戦後開拓がはじまり、ようやく川南の軍用地や丘陵地の開拓が本格化した。逼迫する食糧増産と復員軍人・海外引揚者・戦災被害者の働き口を作るために緊急開拓事業実施要領が決まり、全国各地で国営や県営の開拓地が開発されたが、川南原は国営開拓事業地区となり、全国の農民や満州開拓団の引揚者や、ここで訓練していた落下傘部隊の兵隊が集まり、兵舎などに暮らしながら厳しい開拓に従事した。1949年6月6日には、唐瀬原開拓地に昭和天皇の戦後巡幸もあった。その後、人口はほぼ倍増し、開拓者の出身県が全都道府県におよんだため、「川南合衆国」と呼ばれるようになったが、当初は水不足・火山灰性の土壌・過剰入植等の問題を抱え、離農者も多かった。青森県の三本木原、福島県の白河矢吹、宮崎県の川南原が日本三大開拓地と言われるのは、規模の大きさと難度の高さからであった。現在では宮崎の畜産業の中心地となっている。2010年の口蹄疫(2010年日本における口蹄疫の流行)では畜産業が大きな打撃を受け、その復興が進められる一方、茶や野菜などの畑作を振興して畜産とのバランスをとることも模索されている。

1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により児湯郡川南村が発足
1941年(昭和16年) - 日本陸軍により空挺落下傘部隊が創設され訓練の地となった。町内には空挺落下傘部隊発祥の記念碑があり、部隊が使用した給水塔が今も残されている。川南護国神社には部隊の戦死者が祀られており、毎年11月に慰霊祭が行われる。
1953年(昭和28年)2月11日 - 町制施行
2025年(令和7年)2月9日 - 中学校統合問題を契機に、町長側と反対の立場だった前町長派が多数を占める町議会との間で対立が生じ、機能不全に陥って町政が混乱したことを理由に、町議会の解散を問う住民投票が行われ、賛成多数でリコールが成立。地方自治法に基づき町議会が即日解散となった。

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „川南町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Sanjo, Public domain – Wikimedia Commons