上郡町: 歴史
=== 原始・古代 ===
縄文時代中期末(約4,000年前)には、町内で人々の生活痕跡が確認されている。弥生時代後期(約1,800年前)には、高田・神子田遺跡 で西播磨最大級の竪穴建物が作られるなど、拠点的な集落が営まれる。
古墳時代初頭(3世紀中ごろ~後半)には、千種川流域最大・最古の前方後円墳である中山13号墳が造営される。古墳時代末期(6世紀末~7世紀)には、西播磨最大級の方墳・與井1号墳が築造される。
飛鳥時代の7世紀中ごろには、町内に古代山陽道が敷設される。
白鳳期の7世紀後半には、赤穂郡唯一の古代寺院である與井廃寺が創建される。また、古代山陽道沿いに、掘立柱建物を中心とした初期の形態の駅家である高田駅家と野磨駅家が造営される。
奈良時代後半の8世紀中ごろに高田駅家と野磨駅家は、後期駅家として瓦葺礎石建物に建て替えられる。
平安時代の996年(長徳2年)、内大臣・藤原伊周が殿上籍を削られ、大宰権帥となり流される途中に播磨国に留められ野磨駅家に留まったとされる。
鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)、鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇とその第1皇子である護良親王の令旨を受けて、赤松則村(円心)が挙兵。京都・六波羅探題を陥落させて建武の新政が始まる。
建武の新政では、則村は冷遇され、播磨国守護も召し上げられたため、播磨に戻り足利尊氏に与した。尊氏が京都で敗れ西国へ敗走する中、則村は尊氏に九州で勢力を回復することや北朝の光厳上皇を後ろ盾とすることなどの献策を行うとともに、白旗城を築き尊氏を追撃する宮方の新田義貞を釘付けにした。勢力を盛り返した尊氏が東上してくると、義貞は白旗城攻めを諦めて撤退し、尊氏と合流した則村は、湊川の戦いで、新田義貞・楠木正成を破り、京都を奪還。室町幕府を成立させた。
室町時代の1441年(嘉吉元年)には、赤松満祐・赤松教康父子が恐怖政治を行う第6代将軍足利義教を謀殺するという嘉吉の乱を起こし、播磨で軍備を整えるが、幕府軍である山名持豊(宗全)に攻められ、赤松宗家は滅亡する。
戦国時代の1578年(天正6年)、天下統一を目指す織田信長の中国攻めに際して、羽柴秀吉が上月城攻防戦の際に、町内の別名城に陣を敷いたとされる。
1701年(元禄14年)- 赤穂藩主・浅野長矩が元禄事件を起こし、町域を含む赤穂藩領が公収され、天領となる。
1809年(文化6年)- 全国の測量を行う伊能忠敬隊が町内で測量を行う。
1832年(天保3年)- 2月28日、赤穂郡細念村(現・上郡町岩木丙字石戸)で大鳥圭介が誕生する。
1866年(慶応2年)- 播磨国都市部で起こった百姓一揆が町内にも及ぶ。
1871年(明治4年)- 廃藩置県が実施され、町内は54の小村に分かれる。
1888年(明治21年)- 町村制が実施され、町内は上郡村、高田村、鞍居村、赤松村、船坂村の5ヶ村となる。
1913年(大正2年)- 上郡村が上郡町となる。
1955年(昭和30年) -3月25日、新・上郡町が誕生する。
1958年(昭和33年) -12月25日に町章を制定する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制に施行により、上郡村・井上村・大持村・山野里村・竹万村の区域をもって上郡村が発足。
1913年(大正2年)4月1日 - 上郡村が町制施行して上郡町となる。
1955年(昭和30年)3月25日 - 上郡町が鞍居村・船坂村・高田村および赤松村の一部(苔縄・大枝・大枝新・岩木・柏野・細野・赤松・河野原・楠および旭日の一部)と合併し、改めて上郡町が発足。
昭和の大合併においては、1954年(昭和29年)に5月13日に兵庫県が公表した合併計画では上郡町・鞍居村・船坂村・赤松村・高田村・有年村の6町村による合併が想定されていたが、有年村は赤穂市からも合併の勧誘を受けていた。また高田村・有年村は相生市・赤穂市を含む赤穂郡2市8町村の大合併を説いたが、具体化するには至らなかった。有年村は結局赤穂市との合併を選択、高田村は有年村と行動を共にしようとして赤穂市に合併を申し入れるも拒否され上郡町との合併に至った。なお赤松村の分村については赤松村 (兵庫県)#沿革を参照。
平成の大合併においては合併相手がひとつに定まらず、(1)赤穂市との合併、(2)相生市との合併、(3)相生市・三日月町との合併、の3種類が候補に上がり、それぞれ独立した合併協議会が設置されるという状態になっていた。三日月町が佐用郡合併を選択し、(1)と(2)は意見対立が大きく、旧・合併特例法の下ではいずれも合併に至らなかった。
相生市との合併協議会は事実上解散状態にある。赤穂市との合併が新・合併特例法の下ですすめられていたが、2007年9月に赤穂市で行われた住民投票で合併反対票が賛成票を大きく上回り、市長が合併断念を表明した。