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山都町: 歴史

山都町: 歴史

令制国としては肥後国の一部で、益城郡に属した。中世南北朝から戦国期にかけては、阿蘇大宮司家が旧矢部を本拠地として現在の熊本県央地域一帯を所領とし、その居館「浜の館」を築いてその繁栄を誇る。
その後、江戸時代となり、地方行政の根幹をなす「手永制度」が敷かれた。矢部郷(旧矢部町と旧清和村朝日地区)は「矢部手永」、知保郷(旧清和村小峰地区と旧蘇陽町一帯)は「菅尾手永」として、それぞれに惣庄屋を配して行政治安を司らせた。民衆も惣庄屋と一体となり、地域の発展に寄与した。
肥後細川藩の藩主が、矢部地方に狩りに出かけた際、この地方にある滝の壮大さ・美しさに感動し、藩のお抱え絵師を派遣して、肥後各地の名勝の絵を描かせた(『領内名勝図巻』)。
嘉永7年、矢部手永の会所(当時の役場相当)時代には、他の地方と同じように新道や堰、用水路など数多くの公共的インフラストラクチャーが建設された。その一つに、御岳と白糸地区に造られた生活用水や農業用水確保のための通潤用水があり、通潤用水の水を送る石組みの水路橋として築造されたのが通潤橋である。通潤橋は、阿蘇山や熊本城などと並び熊本県でも有数の観光資源・文化財であり、町のシンボルともなっている。
当時、矢部会所の惣庄屋として布田保之助がいた。通潤用水及び通潤橋の功労者として布田は神格化されることも多いが、その整備は布田一人の成果ではなく、矢部手永から集められた資金や肥後細川藩の資金を借り、各地の労働者や他地区の石工など総動員して作られた地域の歴史的な遺産である。道路などと同じく個人や地元・特定団体の所有物ではない。
この頃から肥後と東隣の日向国(現在の宮崎県)を結ぶ日向往還の主要な交易地・交通の要衝として、山都町の中心市街である浜町や馬見原(蘇陽地区)は商家を中心に繁栄していた。
明治初めの西南戦争では、熊本で官軍と戦って破れた薩摩軍が、敗戦の退路に立ち寄っている。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制発足により、現在の町域にあたる以下の町村が発足。
上益城郡浜町村・下矢部村・白糸村・御岳村・中島村・名連川村・朝日村
阿蘇郡馬見原町・菅尾村・柏村・小峰村
1912年(明治45年)4月1日 - 浜町村が町制施行。浜町となる。
1948年(昭和23年)4月1日 - 小峰村が上益城郡に移行。
1955年(昭和30年)2月1日 - 浜町・下矢部村・白糸村・御岳村が対等合併し、矢部町が発足。
1956年(昭和31年)
7月1日 - 朝日村・小峰村が対等合併し、清和村が発足。
9月30日 馬見原町・菅尾村・柏村が対等合併し、阿蘇郡蘇陽町が発足。
1957年(昭和32年)4月1日 - 中島村・名連川村を矢部町に編入。
2004年(平成16年)
1月1日 - 「矢部・清和・蘇陽合併協議会」発足。
7月14日 - 第9回協議会において、全国公募の中から町名を「山都町(やまとちょう)」に決定。
応募理由は「山の都として栄えるように。山を三と読替え、3町村が栄えるという意味も含む。大和朝廷の「やまと」と同じ響きなので。」
「山都町」「九央町(くおうまち)」「美山町(みやまちょう)」の3候補から選ばれた。
2005年(平成17年)
1月27日 - 第13回協議会において、山都町章を応募総数1,655作品の中から決定。
デザインの趣旨:
山都町の「山」の文字で人と自然が調和する町をデザインする。阿蘇外輪山と九州山地の緑に囲まれた町に、伝統薫るそよ風が吹くイメージ。
山都町らしさを町章からも感じてもらえるように町の将来像をテーマにし、町を包む自然とやさしい風が創るゆとりの空間を表現。
2月11日 - 山都町誕生。
2023年(令和5年)7月3日 - 梅雨前線による集中豪雨のため、御船川の水位が上昇。国道445号線の金内橋が崩落して通行止となった。

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Quelle: Text: Wikipedia – „山都町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: chappaless, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons