Heimatgeschichte · Yuza ·

遊佐町: 歴史

遊佐町: 歴史

遊佐の地名が歴史に登場するのは延長5年(927年)の『延喜式』二十八、兵部省、諸国駅馬の項にある出羽国駅馬「遊佐 十疋」という記述である。また、承平7年(937年)の『和名類聚抄』にも「遊佐郷」とあり、千年以上前から文字も音もそのまま伝えられている珍しい例とされる。
久安4年(1148年)には関白の藤原忠実が子の頼長に「遊佐荘」などを譲った記録があり、藤原摂関家の北限の荘園が立荘されていた。その後、藤原基衡の荘園となった後、遊佐氏の荘園となり郡名に「遊佐郡」が用いられるようになった。
戦国期になると砂越氏、板垣氏(石垣氏)、次いで大宝寺氏、上杉氏、最上氏がこの地を治めた。
江戸時代には庄内藩が置かれた。そして元和8年(1622年)に酒井忠勝が入部し、田川、櫛引、遊佐の三郡を統治した。

酒井氏は入部直後に大規模な検地を行い、表石よりも実石を大幅に増やすことに成功したが、その増えた石高の分まで徴税にまわされた為に民衆は苦しんだ。寛永9年(1632年)、遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門が農民の離散の責を問われて解職・投獄される。翌年釈放されたが藩の暗殺計画を知り、弟の長四郎とともに江戸へ逃れ、寛永11年(1634年)江戸幕府に藩の窮状を示した直訴状を提出する。そこには最上氏時代よりも年貢が二倍近くに増え、凶作でも通年どおりに治めねばならず、年貢を納めるために男女千人ほどが身売り・逃亡したと書かれていた。この直訴は幕府に受理され、以後太郎左衛門は大肝煎に復している。
宝暦4年(1754年)、凶作。宝暦5年(1755年)、歴史的大飢饉(宝暦の飢饉)。
天保7年(1836年)、青山留吉が遊佐郷青塚(現:同町比子青塚)に誕生する。留吉はその後後志国に渡り道内有数の漁業家に成長する。青塚には彼の偉業をたたえ、鰊御殿とも呼ばれる旧青山本邸が現存する。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い飽海郡遊佐町村、白井新田村、野沢村、吉出村、小田原村(一部)が合併し、遊佐村(ゆざむら)が発足。
1941年(昭和16年)4月1日 - 町制施行し遊佐町となる。
1954年(昭和29年)8月1日 - 飽海郡遊佐町、稲川村、西遊佐村、蕨岡村、高瀬村、吹浦村が合併し、遊佐町を新設。
1956年(昭和31年)
1月1日 - 酒田市と境界の一部を変更。
8月15日 - 酒田市と境界の一部を変更。
2003年(平成15年)2月1日 - 酒田市と飽海郡4町(遊佐町、八幡町、平田町、松山町)で「庄内北部地域合併協議会(法定協議会)」を設置。
2004年(平成16年)10月6日 - 協議の難航から協議会が休止(事実上の離脱)。その後残りの1市3町は新たに協議会を立ち上げ合併した。この合併の結果、遊佐町は飽海郡に属する唯一の自治体となった。
2021年(令和3年)8月30日 - 町役場の新庁舎が完成し、遊佐町遊佐字舞鶴211番地から202番地に移転する。

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Quelle: Text: Wikipedia – „遊佐町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: ChiefHira, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons