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朝日町 (三重県): 歴史

朝日町 (三重県): 歴史

弥生時代の遺跡が複数ある。
寛仁元年(1017年) 小向には小向御園が、埋縄には宇津尾御園が、柿には柿御厨があり、縄生と桑名市東金井一帯には金綱御厨があり、訓覇郷または久米郷に属していたとされる。これらが伊勢神宮領になる
正治元年(1199年) 小向御厨神名社が正治寺を建立する
建武4年(1337年) 小向地頭本間有資、代官田嶋貞国が北朝方として出兵する
延元4年(1339年) 愛洲宗貫が小向城を築城し、小向地頭になる
延文2年(1357年) 小向地頭足助駿河守が年貢を横領する
寛正6年(1465年) 正治寺住職玄永が殺害される。 伊勢貞行のひ孫伊勢貞弘が小向村代官となり、、出家し正治寺に住み出す
応仁元年(1467年) 蓮如上人が帰洛の際、正治寺伊勢氏が教えを授かる
文明元年(1469年) 金綱御厨が細川氏などにより、伊勢神宮御師三日市秀栄に寄進される
文明16年(1484年) 細川政元の祈祷の権利を巡って細川氏と金綱御厨三日市氏が争う
延徳2年(1490年) 小向が曇華院領になる
明応5年(1496年) 柿に西光寺が建立される
永正5年(1508年) 小向の半分が伊勢氏領だったが、全てが曇華院領になる
天文8年(1539年) 小向の領地を巡り曇華院と四日市朝倉氏との間で訴訟になる
天文13年(1544年) 朝倉氏が再度訴訟を起こす。曇華院が勝訴する
天文から永禄の間 栗田監物が縄生城主に、飯田庄之助が小向城主に、沢木宗喜が柿城主に、疋田左京が埋縄城主になる。埋縄(埋縄城が立地)、柿(柿城が立地)、小向(小向城が立地)、縄生(縄生城が立地)にそれぞれ城があり、小領主が分治していた。
永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いにより北伊勢一帯に葛山氏が逃げ延びたとされる
永禄10年(1567年) 滝川一益により縄生城、小向城、柿城、埋縄城が陥落する
天正期 金綱(縄生)、宇津尾(埋縄)、小向、柿が織田信雄家臣森清十郎領地になる
慶長6年(1601年) 桑名藩が立藩し、小向、柿、縄生が桑名藩領になる。埋縄は忍藩領になる
慶長8年(1603年) 伊勢慶昭により小向正治寺が再興され、小向山浄泉坊に改称される
寛永12年(1635年) 町屋橋が完成する
元文年間 森有節が小向に窯を開く
天和3年(1683年) 葛山六大夫が代官になる
安永6年(1777年) 柿の西光寺に桑名の鋳物師広瀬道次が鋳造した鐘が設置される
天明元年(1781年) 小向で橘守部が飯田庄之助末裔として生まれる
安永年間 いなべ市明源寺葛山玄門が浄泉坊を再興する
享和元年(1801年) 玄門の子正晃によっていなべ市明源寺が再興される
文政9年(1826年) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがこの地域を通過する
弘化3年(1846年) 柿に多賀神社の大常夜燈が設置される
文久2年(1862年) 小向地域は、陶器屋森有節、蔦屋、米屋、鍵屋旅館葛山、鶴屋旅館、茶屋亀屋、茶屋尾張屋、立場茶屋新屋、紺屋、タバコ屋3軒(その内一軒が山本本店山本重治郎の実家)、医院が立ち並んでいて、町場化していた。焼き蛤を食べられる店があった。
文久2年(1862年)5月25日 島津久光が立場茶屋新屋で休憩をとる。
文久3年(1863年)2月29日 徳川家茂が上洛の際鍵屋旅館で休憩をとる。当時の庄屋は伊藤伝十郎

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、朝明郡小向村、柿村、埋縄村、当新田の区域の一部及び縄生村の区域の一部をもって、朝日村が発足する。町村制の施行に伴い、朝明郡のうち縄生村・小向村・柿村・埋縄村の4ヶ村で合併することとなった。村名について、三重朝明郡長は「山添村」としたが、村用掛らが「朝明村」とするよう申請した。しかし、郡と同名であるとして退けられ、館通因に相談したところ、天武天皇が縄生・小向の辺りで朝日を拝まれたという故事があると聞いた。これに因んで「朝日村」として申請し、許可されるに至ったとされる。この故事は『日本書紀』巻第二十八に「於朝明郡迹太川邊、望拜天照太神。」とあらわれるものであり、またこれを現在の朝日町内であるとするのは「迹太川」が現在の朝明川のことを指すという前提によるものであるが、迹太川の比定については異説もありはっきりしない。なお、合併時に至って縄生村のうち字源治甚六新田は朝明郡川越村、字町作は桑名郡城南村の一部となっている。
明治40年(1904年) 小向御厨神明社が稲荷社と宇気比神社と須賀社を合祀し、小向神社が成立する
1896年(明治29年)4月1日 - 三重郡及び朝明郡の区域をもって、三重郡が発足することにより、朝日村の所属が三重郡となる。

1954年(昭和29年)10月17日 - 朝日村が町制施行して、朝日町となる。1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行されたが、朝日村は合併を行わなかった。一方で当時の人口は5,012人に至っており、1954年10月に「朝日町」となった。1956年には次いで新市町村建設促進法が施行され、翌1957年3月に三重県から川越村と合併するよう勧告を受けた。川越村内では大字北福崎などが賛成した一方で、大字南福崎などの賛成を得るまでに至らず、やはり合併は行われなかった。
平成には四日市市の合併構想に合流し、2002年(平成14年)6月に鈴鹿市・楠町を含めた2市2町の「四日市・鈴鹿地区広域合併研究会」に参加した。しかし、2003年の町長選挙で合併の見直しを掲げた田代兼二朗が当選し、研究会を退会した。選挙の公約であった住民投票を2004年1月に実施し、「合併しない」が「四日市市・楠町と合併する」を上回ったため、単独での町政を続けることとなった。

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Quelle: Text: Wikipedia – „朝日町 (三重県)“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Public domainPublic domainfalsefalse   This work has been released into the public domain by its author, あっつぁん, at , Public domain – Wikimedia Commons