Heimatgeschichte · Minobu ·

身延町: 歴史

身延町: 歴史

=== 古代 ===
古代の律令制下では富士川左岸が巨摩郡川合郷、富士川東岸は八代郡川合郷に比定される。平安時代後期には甲斐国各地で荘園が成立し、大野近辺には『玉葉』安元2年(1176年)条に見られる施薬院領・飯野牧が成立する。

鎌倉時代
鎌倉時代には、飯野牧内の波木井郷に甲斐源氏の一族加賀美氏の分流である南部光行の子・波木井実長が居館を構える。実長は同地の地頭になり、南部氏の河内支配の一端を担った。また、下山郷には加賀美氏の一族である秋山光行の兄・光季の子・下山光重が、帯金には同じく加賀美氏の一族とされる帯金氏が入部するなど、町域では加賀美一族の影響が強い。鎌倉期の文永11年(1274年)には波木井実長の庇護のもと日蓮が草庵を構え、日蓮の草庵から発展した身延山久遠寺は甲斐・駿河方面における日蓮宗の拠点となり、波木井実長ら南部一族も帰依した。

南北朝時代~戦国時代
南北朝時代には南部氏が奥州に入府し、河内地方には甲斐守護・武田氏の一族である穴山氏が入府する。戦国時代には守護武田氏の勢力が衰え、甲斐国内では武田氏と有力国人勢力との抗争が行われるが、穴山氏も河内地方における有力国人として台頭する。穴山氏は信友期に武田氏に臣従し、本拠を南部から下山に移転し、下山館を築いて河内支配の本拠とした。下山は下山館を中心とした城下町(下山城下町)が形成され、河内路(近世の駿州往還)の宿場が設けられ交通の要地としても機能した。
その後、穴山氏は信君期に領国化された駿河江尻領を任され支配領域が拡大し、下山は引き続き穴山領の中心として機能する。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して信君は織田方に帰属し離反するが、上方にいた信君は同年6月の本能寺の変に際して一揆に襲われ横死する。本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生すると、三河国の徳川家康は家臣の岡部正綱を甲斐へ派遣し、下山において菅沼城を築城された。穴山氏は家康の庇護のもと信君の子・勝千代が継承するが、天正15年(1587年)に勝千代が死去し、穴山氏の河内支配は終焉を迎えた。
その後、支配領主は徳川氏の支配、豊臣家臣の大名と変遷し、近世には巨摩郡西河内領の13か村、八代郡東河内領の11か村が成立する。全村が幕府直轄領、甲府藩領を経て、享保9年に甲斐一国が幕府直轄領化されると在方は三分代官支配となり、町域は上飯田代官支配、後に市川代官支配となる。このころは身延山久遠寺の門前町が発達し、多くの参詣者が訪れた。
山間部の河内地方は米麦栽培が乏しく農間余業が行われ、町域でも紙漉や楮・三椏栽培が行われた。富士川流域の大野には大野堤防が所在する。大野堤防は石積の堤防で、慶安2年以前に水害により破損し、本遠寺と関係の深い紀州徳川家により修築されたと考えられている。

明治
1875年(明治8年)1月 - 巨摩郡身延村・波木井村・梅平村・大野村が合併して身延村となる。
1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法の施行により、身延村が南巨摩郡の所属となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、身延村が単独で自治体を形成。
昭和
1931年(昭和6年)1月1日 - 身延村が町制施行して身延町となる。
1955年(昭和30年)2月11日 - 下山村・豊岡村・西八代郡大河内村と合併し、改めて身延町が発足。
1969年(昭和44年)11月3日 - 旧町民歌「身延町の歌」を制定。
平成
2004年(平成16年)9月13日 - 身延町・中富町・西八代郡下部町が合併し、現在の身延町が発足。町名は公募により選ばれ、南巨摩郡に属すことが県議会で決定した。
令和
2019年(令和元年)8月13日 - 新町歌「おかえりなさい 少年たちよ」を制定。

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Quelle: Text: Wikipedia – „身延町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 浅野ます道, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons