Heimatgeschichte · Nakai ·

中井町: 歴史

中井町: 歴史

=== 古代 ===
少なくとも、縄文時代から人が活動していたといわれている。田中・一本松付近・境・井ノ口・松本の各台地には縄文土器の破片が散布している。松本の台地から殆ど完全に近い縄文土器の壺が発見されている。
縄文期以降の人の活動の痕跡として、雑色横穴群や比奈窪横穴群、宮向横穴墓(※関東大震災と宅地開発で失われた)などの遺跡がある。雑色横穴群は8世紀中頃から末期にかけて、比奈窪横穴群は7世紀から8世紀にかけて、宮向横穴墓は7世紀前半に造られたものであるといわれている。
735年の「相模国封戸租公益帳」には、「余綾郡中村郷五十戸」という記録があり(一郷=五十戸)、田は167町と記録されていた(参考として、田の広さを例えるならば、1958年(昭和33年)当時の中井町の田の規模は91町8反90歩と記されている。相模国封戸租公益帳に記されている田の広さは、1958年(昭和33年)当時の田の広さよりも大きい)。このため「中村郷」は、現在の小田原市上曽我・曽我原を含んでいたと考えられる。簡潔にいうと、現在の中村地区のルーツである中村郷は、少なくとも奈良時代には存在し、余綾郡に属していたといえる。

平安時代末期には、相模国の西側を治めた武士団である中村氏が、中村郷を荘園として支配していた。中村氏は桓武平氏の流れを汲んだ坂東平氏であり、源頼朝の挙兵にも参加した。
室町時代の僧道興による歌紀行『廻国雑記』に「蓑笠の社として社頭ましましける しばらく法施し侍りて 天の下 守らんための 誓とや ここにき宿る 蓑笠の社」という和歌が残っており、この和歌は蓑笠神社境内の根府川石に刻んで現存している。少なくともこの時代には蓑笠神社が存在したと考えられ、井ノ口の集落の存在を示唆する古い歴史書である。
戦国期には、鴨沢要害が築城され、大森氏に仕えた武和泉守や、北条早雲が戦を繰り広げてたとされる。
江戸時代には、比奈窪、松本、雑色、鴨沢、古怒田、半分形、田中、遠藤、藤沢、境別所の各村には、小田原宿の助郷をした記録が残っている。江戸時代末期には、小田原藩領が10ヶ村(うち2か村は旗本領との相給)、旗本領は8ヶ村(うち2ヶ村は小田原藩領との相給)となっていた。
中井の16の村は、丘陵地のため畑が多かった。境別所や岩倉では漆を年貢として納め、農閑期は薪を国府津に売り出して民衆は生計を立てていたという。庚申講や地神講、念仏講を結成した記録が残っている。講によって息抜きをしたり、富士講や大山信仰や観音信仰で巡礼し、通行手形を取得し他国を観察していたと考えられる。

1873年(明治6年):寺院過去帳によると、現在の中井町に相当する地域で苗字がはっきりし始める。
1873年(明治6年)〜1881年(明治14年):地租改正が行われる。
1884年(明治17年):全国的な農村困窮により、神奈川県西部を中心に「一色騒動(露木事件)」→真土事件 が起こる。井ノ口、境からも1名ずつ、大磯を襲撃した者がおり、姓名、年齢が公表されている。[県史通史編]
1897年~1906年(明治30年代):中井の地において、乳牛の導入、落花生栽培、みかん栽培が導入される。乳牛飼養は、五分一の古西良、宮上の岩本又治郎、宮向の植木源六が先駆者とされている。みかん栽培は中村の相原恵佐が手がけた。これらの事業は失敗したとされるが、全国的にもかなり早期の取り組みだったようだ。
1906年(明治39年):秦野-二宮間に湘南馬車鉄道が開業。町内の井ノ口地区に、上井ノ口駅と下井ノ口駅が設置される。
大正期:農家の地主と小作人化が進む。豪農を中心に農産物の販売に力を入れるようになる。 
1914年(大正3年):「井ノ口倉庫株式会社」が設立される。
1920年(大正9年):「中井醤油株式会社」が設立される。
1919年(大正8年):中村川流域の水田耕地整理が完了。二毛作が可能になる。おそらく現在の大町耕地(※役場南側の水田地帯)ではないか。
1923年(大正12年):関東大震災が起こる。震生湖が誕生する。
中井地区では、全村で死者24名、重傷者21名。建物被害は、全潰家屋163戸、半潰家屋325戸、倉庫や物置数知れず。全戸843戸の内、全半潰488戸と、58%分に相当する大被害。震災直後は507世帯がバラック居住を余儀なくされた。
中井地区では、旧中村小学校と、比奈窪大町から旭橋間の道路、境別所の畑から山林にかけて亀裂が入った。中村小学校の校舎は新校舎が全壊、旧校舎も七分方潰れたという。各地区で地割れや土砂崩壊が多数。
1928年(昭和3年) 12月:中井自動車株式会社が比奈窪〜二宮のバス路線を運行開始する。中村地区を通る町内初のバス路線である。
1929年(昭和4年):秦野自動車株式会社が秦野〜二宮間のバス路線を運行開始する。井ノ口にもバス路線が通る。
昭和初期:昭和恐慌。全国的な流れと同様に、中井でも天候不順により凶作に見回われる。
昭和8年の村全体の収支は、[収入合計50万4660円10銭、支出合計51万8093円86銭] と赤字となる。
1933年(昭和8年):助け合いのための講が流行。昭和8年地点で、中井村の頼母子講・無尽講は計72講に達する。
1934年(昭和9年):中井村が「経済更生指定村」に指定される。 (注:経済更生指定村 は、当時の全国町村の約8割が指定されている。)
1935年(昭和10年):当時の神奈川県知事石田馨が旧中村小学校で「経済更生指定村としての自力更生」の講和を行っている最中、小石大の雹が降り、夏作を全滅させてしまう。
(→農山漁村経済更生運動)

1937年(昭和12年):湘南軌道が廃線となる。以降、町内の鉄道路線は存在しない。
1945年(昭和20年):太平洋戦争終結。

1946年〜1950年(昭和21年〜25年):農地改革。
1964年(昭和39年):現在の「中谷産業」が工場を設置する。中井町に大工場が立地し始める。
1977年(昭和47年):日立電子エンジニアリング が工場を設置する。
1981年(昭和56年):東名高速道路の秦野中井インターチェンジが開通。
1989年(平成元年):神奈川県道71号秦野二宮線の新バイパスが全通。南北の行き来が円滑・高速化される。
1989年(平成元年):テルモが事業所を設置する。

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Quelle: Text: Wikipedia – „中井町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: heriheri, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons