忍野村: 歴史
=== 近世 ===
忍草の忍草浅間神社の本殿は村の重要文化財に指定されている。
また、同社に伝来する木造浅間神・随身像は鎌倉時代の正和4年(1315年)に丹波国の仏師・岩見坊静存が制作し、別当の東園寺が勧請したもので、富士信仰に関する像として知られる。
『甲斐国志』によれば、江戸時代に同像は木花咲耶姫・鷹飼・犬飼像と伝えられたという。
高冷地であることから古くから農業だけでは自給が難しい地域であったため、木挽きや木かやとりといった山仕事の副業が営まれていた。
副業は、江戸時代末期から1897年(明治30年)には「駄賃つけ」と呼ばれる馬による荷物運送業に移行し、その後は養蚕が発達した。
1875年(明治8年)2月15日 - 忍草村及び内野村が合併して、忍野村が発足する。当初の村名案は「豊葦村」であったが、合成地名に変更された。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、忍野村の区域をもって、忍野村が発足する。忍野村及び中野村で組織する組合村を発足する。
戦後、淡水魚養殖や観光業が発展し、忍野八海や二十曲峠に示される豊かな自然資源を活かすことによって多くの観光客が来訪している。
富士山の裾野に広がる原野である梨ヶ原は戦後に米軍管理となった。
これは1959年(昭和34年)以降、自衛隊の北富士演習場として利用されており、入会権をめぐる問題がある(北富士演習場問題)。
工作機械用NC装置や産業用ロボットの世界的なメーカーとして知られるファナックが1972年(昭和47年)に誘致され、本社および主力工場群が所在し、それらの外壁は一部が黄色に塗装されている。
平成の大合併では山梨県市町村合併推進構想として、陸上自衛隊の訓練施設である北富士演習場や富士吉田市外ニヶ村恩賜県有財産保護組合、生活圏での繋がりから富士吉田市、南都留郡山中湖村との合併案が示され、山梨県を7市へ再編した際は富士北麓地域で構成される富士五湖市(富士吉田市、南都留郡忍野村、山中湖村、鳴沢村、富士河口湖町)との合併案が示された。