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湯沢町: 歴史

湯沢町: 歴史

=== 旧石器時代・縄文時代・弥生時代 ===
昭和から平成にかけて大規模なインフラ工事の多かった湯沢町では埋蔵文化財の発掘調査も盛んに行われた。
有史以前には町内の川久保遺跡や岩原遺跡などを中心に旧石器時代から人が住んでいた様子が確認できる。
縄文時代には上記の遺跡を含むいくつかのムラがあり、県内の他の地域と同様に火焔型土器を使用する文化があったと見られる。
弥生時代に相当する土器の破片が竜岩窟で見つかっている。

町内で顕著な遺構は発見されていないが、群馬県と魚野川沿いの古墳遺跡の類似性からこの頃より往来があったと考えられる [1]。

大化の改新以前は北陸道高志国の一部だったと見られる。
701年(大宝元年)の大宝律令制定により国郡里制が敷かれ、現在の南魚沼市、魚沼市、津南町などと併せて魚沼郡(伊乎乃、いおの)と称する(和名抄国郡部)。当初は越中国としたが702年(大宝2年)に越後国に編入(続日本紀第2巻)。
延暦年間に越後守となった坂上田村麻呂が三国峠に越後の弥彦神社・信濃の諏訪明神・上野の赤城明神の三社を祭ったのが三阪神社(御坂三社大明神・三国権現などとも呼称)の起源であると伝えられている。
群馬県側の永井宿の伝承では空海(弘法大師)も巡錫の折に三国峠を訪れたとされる。
927年(延長5年)にまとめられた『延喜式神名帳』の越後国の式内社一覧のうち魚沼神社・伊米神社は同名の神社が町内に存在。
魚沼神社は天平神護年間の創祀と伝わる。
伊米神社は稲作の神として苗場山の山頂にも祀られている。現在にも役行者の信仰が残ることから苗場山の開山は修験者によるものと考えられる。山頂にかつて存在した山小屋「遊仙閣」(2008年取り壊し)は六日町出身の修験者・雲尾東岳によって作られた。

1075年(承保2年) - 越後新発田の高橋半六(高半旅館祖)が関東に向かう途中、湯ノ沢川で温泉を発見(自然湧出毎分約500L)。湯沢の地名の由来となる。
1176年(安元2年) - 戸内山の地すべりにより魚野川が堰き止められ、現在の大字神立付近まで冠水したと伝わる。
1200年頃 - 湯沢村の草創と共に村の鎮守として諏訪社が創建。
この頃 - 貝掛温泉が開湯
1333年(元弘3年) - 建武の新政の叙位除目により新田義貞が越後守となり、新田氏の配下の一族が移り住むようになる。
正平年間 - 武蔵野合戦に敗れた南朝方の脇屋義治が戸沢地内に潜伏する。宗良親王の一族「国王丸」が後にこの地で没したとの口伝がある。
1362年(正平17年 / 貞治元年) - 上杉憲顕が関東管領になり、上杉氏の一部が移り住むようになる。
明徳年間 - 薬師堂が創建
1402年(応永9年) - 楠新兵衛(後に樋口姓)が紀州熊野から勧請し修験宗の熊野神社(熊野権現社)を熊野堂に創建。
1404年(応永11年) - 上野国柴宿村泉竜寺の僧白崖が田中(南魚沼市)の大義寺にとどまって臨済宗を布教、関山に関興庵を建立。末寺として石白に泉福寺を創立した。
1426年(応永33年) - 落雷による焼失で魚沼神社の神体を宮垣外から宮林へ移す。
1486年(文明18年)
道興准后が三国峠を越える(『廻国雑記』)
尭恵法印が三国峠を越える(『北国紀行』・三国峠の文献での初出)
1488年(長享2年) - 長享の乱から逃れて万里集九が三国峠を越えて石白(現在の大字神立)を通り上田庄へ向かう(『梅花無尽蔵』)
1522年(大永2年) - 雲洞庵の九世不点存可を開山とし、中里の西の久保に曹洞宗の瑞祥庵が創建。当初は随所庵と号したという。

戦国時代に入ると国衆による統治の時代に入り、一帯を治める上杉氏の家臣団は上田衆と呼ばれた。
この時代の出来事は永正の乱、越後長尾氏、上田長尾氏、上杉謙信、御館の乱、上杉景勝も参照。
上杉謙信の関東遠征を特に「越山」と呼ぶ。
大源太川に沿って遡上しシシゴヤノ頭を越えて群馬県みなかみ町に抜ける道が「謙信ゆかりの道」の名で現在も登山道の一部として整備されている。
町内の小坂地内に「謙信手植えの松」として伝わる松があったが雪害等により失われ、現代では三代目の松が地元の有志によって植樹されている。

1560年(永禄3年)5月 - 小田原城を攻めるため上杉謙信が最初の三国峠越え。以降、多数の軍馬を通すため軍道沿いの整備が進む。
1563年(永禄6年) - 『永禄六年北国下り遣足帳』第三紙表に「湯ノサワ」「アサカイ」の文字が見える
1571年(元亀2年) - 浅貝の地に浅貝寄居城が築かれる。
1578年(天正6年) - 上杉謙信の死により御館の乱が勃発。景虎方の北条氏の侵攻に備えるため芝原峠に荒戸城(新戸、あらと、荒砥城)が築かれる。北条氏照・氏邦らによって荒戸城が攻め落とされるが、本格的な冬の到来の前に撤退する。
この頃 - 攻め入ってきた北条氏により泉福寺(後の宝珠庵)が打ち壊される。何者かによって石白古銭が密かに地中に埋められる。
1582年(天正10年) - 織田軍の滝川一益の軍勢が三国峠まで迫るが上杉軍がこれを退ける(『北国太平記』)
1584年(天正12年) - 郡司に命じられた栗林政頼が荒砥に関所を設ける(後の八木沢口留番所)
1598年(慶長3年) - 上杉氏の会津移封により堀直寄が坂戸藩2万石として入る。荒戸城廃城。
この頃 - 荒戸城で戦死した城平城主・樋口主水助の甥の清元によって大岳寺が創建。
1600年(慶長5年) - 堀直寄、堀秀治らにより越後一揆(上杉遺民一揆)が鎮定される。

江戸時代には脇往還「三国街道(三国越、三国通り、三国往還とも)」の宿場町として発展していく。
佐渡三道(佐州三路)の一つとして佐渡奉行や新潟奉行、巡見使、関八州取締出役などが通った他、越後で産出する米・鮭・塩・麻・紬・縮(越後上布)や佐渡の金・上田の銀の輸送路として、また長岡藩・村松藩・与板藩(稀に高田藩・新発田藩・村上藩・黒川藩)といった諸大名の参勤交代にも使われようになる。
街道沿いの宿駅には移動のための馬と人足や、宿泊のための本陣や脇本陣が置かれ、旅籠や木賃宿なども軒を連ねた。浅貝、二居、三俣を合わせて三国三宿とも呼ぶ。戊辰戦争で焼かれなかった三俣宿の「池田家」は建物が現存している。
峠越えの立地から、この時代の宿駅機能としては三俣宿が中心であった。関所(番所)もここに置かれた。
なお、河井継之助の三国峠越えは史実ではなく『峠 (小説)』による創作である。

慶長年間 - 堀氏により検地が行われ(堀検地、慶長検地)、街道筋の本格的な普請が始まる。
1609年(慶長14年) - 三国街道が道中奉行の配下となり、宿建が行われた。
1610年(慶長15年) - 越後福嶋騒動により、高田藩(福嶋藩)となる。
1635年(寛永12年) - 武家諸法度(寛永令)により参勤交代が始まる。
1643年(寛永20年) - 郷村法度により郡内の組分けが行われ、湯沢一帯の村は塩沢組となる。湯沢村、神立村、土樽村を合わせて石白郷とも呼ぶ。
1681年(延宝9年) - 越後騒動により、幕府領となる(出雲崎代官所小千谷陣屋預領)。
1683年(天和2年) - 天和検地(元禄検地)が行われる。
1724年(享保9年) - 魚沼郡の7組は会津藩預所となる
1755年(宝暦4年) - 幕府領に戻る
1762年(宝暦12年) - 再び会津藩領になる
1811年(文化8年) - 鈴木牧之が苗場山に登頂。「北越雪譜」にその様子を記す。
天保年間 - 天保郷帳が作られる
1861年(文久元年) - 幕府領になる
1868年(慶応4年) - 三国峠が戊辰戦争の戦場となる(三国峠の戦い)。撤退戦により浅貝宿と二居宿は全戸焼失。新政府によって柏崎県(第1次)の一部となる。

統治機関の変遷は南魚沼郡#歴史も参照。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „湯沢町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Takkitakitaki, Public domain – Wikimedia Commons