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豊郷町: 歴史

豊郷町: 歴史

=== 古代 ===
豊郷町の町域は古代(大化の改新後)の犬上郡安食(あじき、あんじき)郷と愛知郡吉田(よしだ)郷に当たる。安食郷は百済からの渡来人阿直岐氏の居住地であったとされ、安食西にある阿自岐神社は阿直岐氏の邸宅跡とされる。また「犬上郡」の由来となった犬上氏(犬上君)とのゆかりが伝わる地域であり、八目に稲依別王を祭る犬上神社があり、境内近くに犬上君の居館跡とされる場所がある。三ノ坪(沢)や五ノ坪(高野瀬)など、条里制にちなむ小字名が残る。四十九院にある唯念寺は天平3年(731年)行基の開基を伝える。

中世には安食荘・甲良(かわら)荘・日枝荘・吉田荘に属した。東山道に沿う四十九院村と枝村に市座と関所ができ、商業が活発化する。枝村商人は紙座の特権を持ち、主に美濃で仕入れた和紙を京都へ運ぶことで利益を上げた。鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢や尾張へも行商したが、峠の通行権などを巡って蒲生郡の保内商人としばしば争論を起こした。
交通の要衝であるために南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く、文和年間(1352-56年)には足利義詮が後光厳天皇を奉じて四十九院に下向している。城砦としては那須城(石畑)・吉田城(吉田)・高野瀬城(高野瀬)・赤田城(八町)があった。那須城は那須与一の次男と伝わる那須宗信の居館で、現在の八幡神社。宗信はのちに仏門に入り、称名寺(石畑)の開祖となった。吉田城は近江源氏六角氏の一族である吉田氏の居館で、現在も跡地は「吉田屋敷」や「城屋敷」と称される。吉田氏は応永年間(1394-1428年)に上洛し、1496年(明応5年)から京極氏が入城した。上洛後の吉田氏の子孫に角倉了以がいる。高野瀬城は六角氏の部将である高野瀬氏の居館で、現在の古河AS豊郷工場。赤田城は永正年間(1504-21年)に赤田源隆が多賀荘(現在の多賀町)から移り住んだ居館で、現在の白山神社。源隆はのちに仏門に入り、常禅寺(八町)の開祖となった。

江戸時代には全域が彦根藩領となった。中世から続く商業活動がなお活発に行われ、江戸時代から近代にかけて多くの近江商人が生まれた。特に下枝村の藤野家は蝦夷地の開拓・交易で成功、貧民救済事業でも活躍した。また伊藤忠商事・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛は八目村の出身である。明治以降も藤野家や伊藤家をはじめとする豪商達は豊郷の発展に大きく貢献した。しばしば村政に関わったほか、石畑郵便受取所(現在の豊郷郵便局)の開設(1901年、中島常七)、電話サービスの開始(1912年、二代目伊藤忠兵衛)、豊郷病院設立(1925年、七代目伊藤長兵衛)、豊郷小学校校舎建設(1937年、古川鉄治郎)などの功績が残っている。

豊郷町は面積の半分以上が農地であり、稲作が古くからの主産業である。しかし水利に恵まれない土地で水争いが絶えず、犬上川からの用水(一の井)の最下流である四十九院・石畑・八目・八町・雨降野はとりわけ深刻であった。商業活動が活発であったのも、農業だけでは生活に困るという事情が背景にあった。明治中期以降は多くの村民が工場労働や商店勤務のため大阪・京都・東京などへ流出した。生活苦からの人口流出であったが、都会との接触は豊郷の近代文化普及を促すことにもなった。明治時代だけでも13回の干ばつが発生し、特に1909年(明治42年)の干ばつは大きな被害をもたらした。
1909年の大干ばつを受け、被害の大きかった四十九院と石畑の有志が中心となって1910年に「豊郷村耕地整理組合」を発足。村岸峰吉が中心的指導者となって、水利向上が模索され、イギリスのアーレン社から「コンケロル式離心動ポンプ」を購入し、1913年(大正2年)に日本初となる蒸気動力による揚水事業が竣工した。その後も水利開発が進められ、地下水利用の成功や農業協同組合の発展、犬上ダム(多賀町萱原)の建設などで水利問題は解消された。大正時代に竣工した揚水施設およびポンプは現在も保存されている。
「豊郷」という地名は米穀の豊穣を願ってつけられた瑞祥地名であり、ここにも干ばつとの苦闘の歴史が反映されている。

==== 平安時代以前 ====
応神天皇治世(一説に5世紀前後) - 百済からの渡来人である阿自岐氏が、近江国犬上郡安食郷(現・滋賀県犬上郡豊郷町安食地区)を本拠として栄える/安食西にある阿自岐神社は阿直岐氏の邸宅跡とされる。
古墳時代前期もしくは中期 - 安食西古墳の造営/後世には「茶臼山」と呼ばれてきた形状不詳の古墳で、阿自岐氏との関連が推定される。
天平3年(731年、奈良時代後期) - 四十九院にて、法相宗寺院「日吉山千樹寺」(現在の唯念寺〈兜率山唯念寺〉)の開山/行基が興した49番目の寺であるとされる。これに由来して当地は「日吉荘」「千枝の里」と呼ばれるようになったという。
時期不明(一説に奈良時代) - 安食郷の阿自岐氏の邸宅に今日「阿自岐神社庭園」などと呼ばれる庭園が造られる/阿自岐神社境内に今も残る池泉多島式日本庭園の作庭。この庭園は犬上川伏流水の湧水を利用したもので、日本現存最古の庭園とされる。当時は灌漑用池を兼ねていたとされる。

==== 室町時代 ====
康安元年(1361年) - 四十九院の千樹寺(日吉山千樹寺。現・唯念寺)境内にある春日神社が、後光厳天皇の行在所となり、「春日大明神」の宸翰を賜る。
永禄11年5月17日(1568年6月12日) - 上洛の途にある織田信長と観音寺城主・六角義賢父子の軍事衝突(同年9月12日には観音寺城の戦いが勃発)と天台宗派の内紛に地域が巻き込まれる中、この日、千樹寺が信長軍の焼き討ちに遭い、全焼する。

天正8年(1580年) - 四十九院村の千樹寺(日吉山千樹寺)が真宗大谷派へ改宗し、寺名を唯念寺(兜率山唯念寺)に改称して、現在地へ遷座する。
天正14年(1586年) - 藤野太郎衛門常実(藤野喜兵衛の先祖)が、千樹寺(観音堂)を再建。

慶長13年(1608年) - 慶長6年(1601年)からこの年までの7年間で中山道が整備され、当地域は通過地域の一つとなる。当地域に最寄りの宿場町として高宮宿(下り方面、北東方向)と愛知川宿(上り方面、南西方向)が設けられ、2宿の中間地点に位置する石畑(現・豊郷町石畑)には江戸日本橋から121番目の一里塚が設けられる。その後、石畑は間の宿として機能するようになる。
文政2年(1819年) - 阿自岐神社が、三間社流造の本殿を建立。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „豊郷町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: ja:User:Sanjo, Public domain – Wikimedia Commons