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多賀町: 歴史

多賀町: 歴史

※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。「同年4月(4月)」は「旧暦4月(新暦4月)」の意、「同年4月(4月か5月)」とあれば「旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)」の意。

多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。
いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡において同族間で争いながらも隆盛であった。戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとし、多賀氏支族の久徳宗重など幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

==== 有史以前 ====
縄文時代晩期(約3000年前) :犬上川左岸に形成された扇状地の扇頂部(楢崎地区)にあって後に楢崎古墳群が造営される地域において、早期遺構の形成期(土器・棺墓の発見あり)。同所は中世末期の居館遺構まで遺跡が断続して存在する。cf. 6c, 1995.
古墳時代後期(6-7世紀) :楢崎地区において、群集墳である楢崎古墳群の造営期。

===== 古代・中世 =====

和銅5年(712年、奈良時代初頭) :この年に編纂された『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
天平宝字3年(759年)頃か :坂田郡側の霊山(現・霊仙山)山麓で霊仙(長じて日本で唯一の三蔵法師となる人物)が生を受けたと伝えられる。この後、奈良の興福寺に入山する15歳頃までは霊仙山にある寺院(松尾寺など)で修行に励んだという。
奈良時代 :霊山(現・霊仙山)山頂に霊仙寺(非現存)が建立されたと伝えられる。

天安2年(858年) :惟喬親王が藤原良房の追討を逃れて京の都から逃れる際、犬上郡の鞍掛峠(現・多賀町大君ヶ畑〈おじがはた〉の鞍掛峠)で馬の鞍を外して休憩をとらせたと伝えられる(鞍掛峠および大君ヶ畑の地名由来)。
延長5年(927年、平安時代後期) :この年に編纂された『延喜式神名帳』に「近江国犬上郡 多何神社二座」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。

鎌倉時代 :胡宮神社(このみやじんじゃ)が天台宗・敏満寺の鎮護として繁栄し、48伽藍120坊の規模を誇った。

明応3年(1494年、室町時代中期) :神仏習合が進み、多賀神社境内に神宮寺として不動院(天台宗)が建立される(多賀大明神の隆盛期の始まり)。
永禄5年(1562年) :浅井長政の攻撃を受ける久徳氏に味方した敏満寺が長政に攻められ、焼き討ちに遭って120以上あったという堂宇が炎上焼失する。

====== 安土桃山時代 ======
元亀3年(1572年) :命に応じなかった敏満寺を織田信長が攻め、残りの堂宇をことごとく焼き討ちにしたうえ、寺領も取り上げ、これによって敏満寺は廃寺に追い込まれる。唯一残った福寿院が胡宮神社の別当寺院となったが、胡宮神社も被害甚大で衰退期を迎える。
天正年間(1573-1592年) :胡宮神社の再興の願いに対して豊臣秀吉の許可が下り、社殿と大日堂が再建される。
天正16年(1588年) :多賀神社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため、社殿改修を行い、大名に与えるに等しい1万石を寄進する。
慶長年間(1596-1615年) :敏満寺跡地に残った礎石が彦根城普請のために運び去られる。
慶長4年9月15日(1599年10月21日) :関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将・島津義弘が関ヶ原から犬上郡の五僧峠(現・多賀町五僧の五僧峠)を越えて高宮(現・彦根市高宮町)の犬上川河畔で一泊し、翌日、信楽経由で大阪の堺まで敗走する。

寛永年間(1624-1645年) :3代将軍・徳川家光の庇護の下で大造営が行われ、現存する本殿・大日堂・観音堂が寛永15年(1638年)に建立される。
寛永15年(1638年) :大僧正・慈性が多賀神社境内正面で石造りの太鼓橋を造営し、以後、橋は太閤・豊臣秀吉と当社の縁に由来する「太閤橋」の名で呼ばれるようになる(現存)。

===== 明治時代 =====

明治4年(1871年)
旧暦7月14日(新暦8月29日)
廃藩置県が断行され、彦根藩領は彦根県となる。
旧暦10月10日(新暦11月22日): 第一次府県廃合により、彦根県(旧・彦根藩)・宮川県(旧・近江宮川藩)・山上県(旧・山上藩)・朝日山県(旧・朝日山藩)が新設合併し、長浜県が発足。県庁は坂田郡長浜(現在の長浜市)への移転を予定していたが、犬上郡彦根の彦根城に設置された。
1872年(明治5年)
新暦3月24日(旧暦2月16日):県庁が坂田郡長浜に移転。
新暦4月4日(旧暦2月27日):県庁の犬上郡彦根への移転を予定して、長浜県が犬上県に改称。
新暦6月(旧暦5月):県庁が犬上郡彦根に移転。
新暦9月28日(旧暦8月26日):滋賀県が犬上県を編入合併する。
1874年(明治7年)2月11日 :多賀学校(多賀町立多賀小学校の前身)の創立。
1889年(明治22年)4月1日 :町村制の施行により、四手村・多賀村・敏満寺村・土田村・猿木村の区域をもって多賀村が発足。
1893年(明治26年)10月1日 :同年9月に彦根町大字丸野木54番地(現・彦根市城町2-5-25)で開設した滋賀県立彦根測候所(彦根地方気象台の前身)が1日6回の気象観測を開始(滋賀県における気象業務の始まり)。

====== 日露戦争後 ======

1914年(大正3年)3月8日 :近江鉄道多賀線(高宮駅- 土田駅- 多賀駅〈現・多賀大社前駅〉)の開通。
1916年(大正5年)頃 :中川原付近の河原でナウマンゾウの臼歯化石が発見される(その後、多賀町の久徳から中川原にかけての芹川河原で数多く発掘されるナウマンゾウ化石の最初のもの)。

1925年(大正14年)3月12日 :近江鉄道多賀線の電化。

====== 太平洋戦争前 ======
1941年(昭和16年)11月3日 :多賀村・芹谷村・久徳村が合併して多賀町が発足(第一次多賀町)。

1941年(昭和16年)12月8日 :太平洋戦争、勃発。
1942年(昭和17年):NHKが彦根市の金亀町から放送を開始。
1943年(昭和18年)
10月 :近江鉄道多賀線土田駅の休止。
月日未確認 :彦根市および犬上郡を管轄する消防団常備部が発足。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „多賀町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: アラツク, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons