南部町 (山梨県): 歴史
※ここでは旧南部町域を主体に記述している。旧富沢町域については富沢町#歴史を参照。
古代の律令制下では富士川右岸が巨摩郡河合郷に、左岸が八代郡河合郷に比定される。
平安時代末期には甲斐源氏の一族加賀美遠光の三男光行が南部郷に進出して南部氏の祖となり、睦合地区には居館跡とされる南部氏館跡がある。また、鎌倉時代には光行の子実長が波木井に居を構え、日蓮の弟子となり日蓮を身延に招聘した。栄地区では鎌倉時代の武将で鎌倉北条氏の一族・名越氏に仕え、日蓮を崇拝していた四条頼基が内船の地を与えられた際内船寺を建立し、付近にあった温泉を内船温泉として開湯している。
平安時代末期の奥州合戦の頃に光行ら南部氏は奥州に侵攻しそのまま土着した三戸南部氏(南部氏宗家)と甲斐国に留まっていた甲斐南部氏(のちの一戸氏)・根城南部氏(波木井氏、のちの八戸氏)とで別れ、鎌倉時代末期には甲斐・根城が鎌倉幕府側についたのに対し三戸は幕府討伐側につき、鎌倉幕府が倒れた後の南北朝時代になると甲斐・根城は南朝方に与していたが、1392年(元中9年または明徳3年)の南北朝合一(明徳の和約)により甲斐・根城は北朝方であった三戸に帰順する形で奥州陸奥国に転封し、南部氏による河内領統治は終焉を迎えた。
南部氏代わって北朝方であった甲斐守護武田氏の一族穴山氏が河内領へ進出し室町期に統治を行った。穴山氏は当初南部を拠点とし武田方であったが、戦国初期の穴山信風の頃に駿河国今川氏に帰属し、南部も今川方の領地となっている。その後武田信虎の甲斐国統一政策による河内侵攻により再び武田方となり、信風の子・信友の時代には武田氏の甲斐国平定と甲駿同盟の成立により本拠を南部から下山(身延町)移転する(但し、信風の代に今川の甲斐侵攻政策により移転していた説あり)が南部が重要拠点であることには変わりなく、信友の子・信君の頃に駿州往還の拠点として南部宿が成立し、武田信玄による駿河侵攻後は伝馬制の中継点として、信君が徳川氏に従順して徳川領となり江戸幕府が成立した後は身延山参拝および駿河から甲斐への流通のための宿場町となる。同じ時期に富士川水運の中継や駿州往還の脇街道である東河内路の拠点として内船も発展し、睦合(南部)と栄(内船)を結ぶための渡し舟も設けられている。近世には11か村が成立し、富士川西部が巨摩郡西河内領に、東部が八代郡東川内領に属した。全村が幕府直轄領、甲府藩領、再び直轄領に変遷し、上飯田代官から市川代官支配となる。
明治時代の1878年(明治11年)に郡区町村編制法が設定され、南部を主とした睦合地区は南巨摩郡、内船を主とした栄地区は西八代郡に属するようになる。1889年(明治22年)の町村制によって睦合地区は睦合村、栄地区は栄村として単独自治体が成立した。睦合村では近藤喜則が南部宿の陣屋であった南部本陣跡地に私塾である「蒙軒学舎」を開き、宣教師のチャールズ・イビーを招くなどして地域の教育の向上を図った。
睦合村は駿州往還による馬車運輸や徒歩運輸、栄地区は富士川水運が維持され互いに独自の発展をしていたが、大正になると富士川沿いに甲駿鉄道計画の話が持ち上がり、睦合側を通過する甲駿軽便鉄道と栄側を通過する富士身延鉄道(現在の身延線)との誘致合戦になるが富士身延鉄道側による鉄道敷設が採用され、1918年(大正7年)に富士側から延伸してきた南部内船駅(現在の内船駅)まで開業。1920年(大正9年)には身延山の最寄駅である身延駅まで、1928年(昭和3年)には山梨県庁がある甲府駅まで延伸し、それに伴い富士川水運が廃止されたが自動車運輸はまだ未発達であったため町内の交通の要所はこれまでの睦合側から栄側へ移動した。一方で睦合側から内船駅を利用する目的のため1932年(昭和7年)に南部橋が架橋されると両地区の結びつきは強くなり、第二次世界大戦後に実施された昭和の大合併によって両地区の村は1955年(昭和30年)4月1日 に合併し、南巨摩郡に属する形で(旧)南部町が発足した。
南部町発足後はこれまでの林業に加え静岡県から流通用茶葉の導入により茶業が発達し、また駿州往還が国道52号の指定を受け自動車運輸が盛んになったことから睦合村では路線バスが相次いで開設する。しかし1970年代になると林業の衰退などから人口が減少に転じ、路線バスも相次いで廃止されるようになった。町では身延線の貨物輸送に代わり自動車輸送の増加に対応すべく南部バイパスの建設や工場誘致を進めるが人口減に歯止めがかからず、最盛期は1万人近くいた人口は7千人を割り込むことになった。そのため 1995年(平成7年)に地方分権一括法による合併特例法が改正(平成の大合併)されると周辺自治体との合併話が持ち上がり、結びつきが強かった富沢町との合併協議会が設置されると話はスムーズに進み、2003年(平成15年)3月1日に両町は合併し(新)南部町が発足した。
現在の南部町(新南部町)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した南部町(旧南部町)は廃止されている。新南部町(2003年3月1日以降)と旧南部町(2003年2月28日以前)は同名の別自治体という扱いで、国勢調査などのデータについても合併前と合併後とでは別々のものとして扱われている。
旧南部町の町役場は改築の上、南部分庁舎として使用されている。
ここでは睦合村、栄村、(旧)南部町の年表について記す。前後の詳細な歴史については#歴史を参照。
1889年(明治22年):この頃までに富士川西岸の睦合地区6村が合併し南巨摩郡睦合村が,富士川東岸の栄地区5村が合併し西八代郡栄村ができる。
1918年(大正7年):身延線が十島駅、その後内船駅まで開通。
1952年(昭和27年):佐野地域に日本軽金属が建設した水力発電所である柿本ダムが竣工。
1955年(昭和30年):睦合村と栄村が合併し町制施行。
1960年(昭和35年):南部の火祭り開始。
1964年(昭和39年):旧睦合村役場跡地に南部町立南部中学校が完成、睦合中学校と栄中学校を統合する形で開校。
1982年(昭和57年):南部バイパスが開通し、国道52号のルートが変更される。
1986年(昭和61年):かいじ国体が開催され、同地では少年男子ソフトボールが行なわれた。
1994年(平成6年):アルカディア南部総合公園が完成する。
2003年(平成15年):富沢町と合併し消滅。