双葉町: 歴史
以下、明治5年以前の日付は旧暦。
古墳時代には、沿岸部を中心に塚ノ腰古墳群や沼ノ沢古墳群などが建設され、この辺りを中心に集落が形成されていた。また、付近からは郡山貝塚なども発見されており縄文時代よりこの地には集落があった。
成務天皇の治世から国造が割拠した7世紀前半には、現在の双葉町は、染羽国造(しめはのくにのみやつこ)の領土の南限であった。
7世紀前半頃に清戸迫横穴が作られ、壁画が描かれたと推定される。律令制が浸透した7世紀後半には、現在の双葉町(長塚)と大熊町(苦麻)の境(概ね現在の福島第一原子力発電所付近)を境にして、長塚以北は陸奥国に編入された。
713年(和銅6年)に染羽が標葉と改められる。この時、染羽国造の領土は、陸奥国の標葉郡となった。718年(養老2年)には陸奥国から分離されて石城国に編入されるも、720年代には石城国は陸奥国に編入された。
722年(養老6年)、前田稲荷神社に御神木(前田の大スギ)が植えられる。
807年(大同2年)頃、坂上田村麻呂が蝦夷討伐のため訪れたと伝わる。
869年(貞観11年)5月26日、貞観地震による津波が襲来する。
平安時代末期の保元年間(1156–1159年)になると、請戸城を本拠地とする標葉隆義(海道小太郎成衡(清原成衡)の四男と伝わる)の統治下に入り、これ以後、現在の双葉町は標葉郡を領土とする標葉氏の統治下に置かれた。
1189年(文治5年)の源頼朝による奥州征伐では標葉氏を始めとした岩城氏一族は奥州藤原氏と関係が深かったが、鎌倉方として参陣して本領を安堵された。鎌倉時代後期には岩城氏から完全に独立した地位を築いている。
1331年(元弘元年)に、標葉隆連(標葉氏八代当主標葉持隆の三男)が父の命令により新山城を築城し、内神とし新山大権現(現在の新山神社)が建立された。双葉町の合併前の新山町は、この城にちなんだ名称である。
鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の新政でも標葉氏は本領を安堵され、北畠顕家に従い秋田・津軽方面の北条方の残党との戦いなどに従軍し、以後も西上転戦した。
南北朝時代は、霊山にいた義良親王(後の後村上天皇)、北畠顕家に従い南朝方に参加した。霊山が落城した際に、追っ手の目を欺くため旅芸人の装束をして踊りながら逃げ落ちたとの伝承がある。この故事が元となり宝財踊りとして現在まで伝わっている。
だが、後に北朝方に服属し、その後も北朝を擁した室町幕府のもと周囲との同盟を巧みに結び独立を保ち、1410年(応永17年)には、海道の岩城氏、相馬氏、楢葉氏、好嶋氏、白土氏、諸根氏、菊田氏らの岩崎郡、岩城郡、楢葉郡、標葉郡、行方郡の五郡で五郡一揆を結び相互に協力をした。
1442年(嘉吉2年)に二代新山城主の標葉隆重が当主の標葉清隆の家臣を殺害し、それに怒った清隆に攻められ新山城が落城すると隆重は岩城氏領に逃れた。その後も家中の混乱が続くと、岩城氏が白河結城氏と結び1474年(文明6年)に同族の楢葉氏を滅ぼし、標葉氏に対し攻勢を強め相馬氏に対抗した。この頃には北の相馬氏当主相馬高胤からは不倶戴天の敵とみられており、標葉氏は敵対関係になった海道筋の岩城氏と相馬氏と南北ともに領地を接することとなった。
その後、標葉氏は1492年(明応元年)12月に本拠地である権現堂城(浪江町)が攻め落とされ相馬氏により滅ぼされた。双葉町域を治めていた三代新山城主標葉隆豊はこの戦いには相馬方として参陣した。
標葉氏が相馬氏に滅ぼされて以後の室町時代後半から戊辰戦争終結後の版籍奉還まで、現在の双葉町域は相馬氏の統治下に置かれた。江戸時代の相馬中村藩政下では、浜街道の宿場町(長塚宿・新山宿)であった。
1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いの前に西軍の上杉景勝を背後から牽制するため徳川家康の命により東軍の伊達政宗が自領へと戻るため、中立の立場を取っていた相馬氏領の浜街道を通過し、現在の浪江町の正西寺で饗応される。
1611年(慶長16年)10月28日:慶長三陸地震により発生した大津波が襲来し、相馬中村藩領で700人余が死亡する。
1615年(慶長20年):新山城が廃城となる(廃城は1611年とも伝わる)。
1661年(万治4年/寛文元年):秋葉神社が分霊される。
1697年(元禄10年):標葉郷を南北に分け、長塚に南標葉郷陣屋を置く。
1700年頃:長塚でダルマ市が始まったと伝わる。
1791年(寛政3年):相馬妙見宮初發神社が建立される。
1793年(寛政5年)正月7日:寛政地震により津波が襲来する。
1831年(天保2年):長命山正福寺が開基される。
1868年(慶応4年/明治元年):戊辰戦争が勃発し、現在の双葉町域を統治していた相馬中村藩も隣接する磐城平藩や仙台藩らと奥羽越列藩同盟に参加したため、磐城の戦いの戦禍に見まわれた。双葉町域は7月29日より福岡藩、津藩、長州藩、広島藩、岩国藩など新政府軍によって新山宿を制圧された。前日の7月28日に夜ノ森(富岡町)付近での戦闘で新政府軍に敗北した列藩同盟軍は、相馬中村藩領の熊川宿(大熊町)に仙台藩兵などが火が放ち、仙台藩兵は自領の駒ヶ嶺城(相馬郡新地町)の手前である藩境の中村(相馬市)まで、相馬中村藩兵は浪江まで後退したため、南標葉郷(双葉町、大熊町)に守備兵はほとんどなく商人や農民などの領民は見捨てられる形となった。新政府軍は熊川宿の火災により迂回し北上したが、さしたる足止めにもならず、翌日には新山までまたたく間に制圧された。当時を経験した領民の話を直接聞いた地元の明治生まれの高齢者などは「新政府軍による徴発や略奪があった」と語っていた。その後、高瀬川(浪江町)を挟んで行なわれた浪江の戦いの時には、新山宿は新政府軍の拠点となった。この戦いでの新政府軍の戦死者は双葉町新山にある自性院により弔われた。戦死者の墓は現在も自性院墓地内にある。この戦いでは相馬中村藩は同盟軍より裏切りの疑いをかけられ、仙台藩などの同盟軍の援軍がなく単独で戦うこととなった。一時は新政府軍を退却させるなど奮闘したが、8月1日には援軍が到着した新政府軍の前に敗北した。この敗北により仙台藩兵など同盟軍は中村より自領などへ引き上げた。これにより相馬中村藩は新政府軍に降伏し、8月6日に受諾された。その後も相馬中村藩領では仙台藩が降伏するまでの約2か月におよんで新政府軍により徴発が行なわれた。
明治4年
7月14日(西暦1871年8月29日):廃藩置県により中村藩が廃止され中村県が成立。
11月29日(西暦1872年1月9日):中村県と平県が合併されて磐前県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
明治5年(1872年):新山郵便局が開設。
1873年(明治6年):学制に基づき前田小学校、日新小学校(長塚小学校)が開校。
1876年(明治9年)8月21日:磐前県・福島県・若松県が合併して現在の福島県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1886年(明治19年):前田小学校などが統合し新山高等小学校設立。
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行に伴い、標葉郡新山村(しんざんむら)と長塚村が発足する。
1896年(明治29年)4月1日:標葉郡が楢葉郡と合併し、双葉郡(当時の表記は雙葉郡)となる。
1898年(明治31年)8月23日:常磐線長塚駅(現在の双葉駅)が開業。
1913年(大正2年)2月1日 - 新山村が町制施行して新山町となる。
1913年(大正2年):天王山公園で双葉忠魂碑除幕式が行われる。
1918年(大正7年):福島私立修齋女学校長塚分校が開校。
1921年(大正10年):町内に初めて電灯設置。
1923年(大正12年)4月16日:福島県立双葉中学校(現:福島県立双葉高等学校)が開校。
1935年(昭和10年):新山小学校から御真影が盗まれ、校長に身代金を要求する事件が発生。後日、町内に住む男が逮捕され、御真影は取り戻された。
1945年(昭和20年):太平洋戦争下、米軍により新山、長塚、前田、鴻草、郡山、細谷、中浜が空襲を受ける(磐城陸軍飛行場への空襲)。 …