山中湖村: 歴史
=== 先史 ===
富士北麓地域には縄文時代の遺跡が数多く分布するが、村域においても長池、平野柳原、篭坂峠付近などに縄文時代の遺跡が存在している。
古代の律令制下においては都留郡に属する。
『延喜式』に拠れば、東海道を駿河国横走駅(静岡県御殿場市)から分岐し富士北麓を通過し甲斐国府に至る官道である甲斐路(御坂路)が整備され、三駅のひとつである「加吉駅」は村域に比定されている。
村域は甲斐・駿河・相模の三国間の交通の要衝で、御坂路は中世に「鎌倉往還」と呼称される。
平安時代末期に関東で挙兵した源頼朝が治承4年(1180年)8月の石橋山の戦いで敗退した際には、土屋宗遠(三郎)が甲斐へ向かう際に鎌倉往還を通過している。
また、『吾妻鏡』によれば、承久3年(1221年)6月の承久の乱に東山道大将軍として上洛した甲斐源氏の武田信光が、帰路の加古坂峠において乱の首謀者のひとりである藤原光親を処刑しており、光親の墓所が伝わっている。
戦国時代の甲斐国は守護・武田氏の内訌と有力国衆の抗争が繰り広げられ、郡内では小山田氏が武田氏と敵対する。さらに隣国である駿河の今川氏や相模の後北条氏も甲斐へ侵攻した。
村域には明応3年(1493年)には武田家惣領・信縄と弟の油川信恵 が争った八代合戦で戦死したと伝わる山中太郎左衛門の城館跡がある。明応4年には伊勢宗瑞(北条早雲)が今川氏と共同して郡内へ侵攻し、大永6年(1526年)には甲斐守護・武田信虎(信尚)が駿河国梨木平において北条方を破する。天文4年(1536年)には北条氏綱と今川氏が郡内へ侵攻し、武田氏・小山田氏との間で山中の戦いが行われている。
村域を通過する鎌倉街道は天正10年(1582年)3月の武田滅亡後に発生した「天正壬午の乱」において北条氏が甲斐へ侵攻する際のルートとなった。
近世に郡内地方は谷村藩領を経て幕府直轄領となる。山間部である郡内地方は耕地に乏しく、生業は僅かな米麦栽培のほか入会地における山稼ぎや街道添いの駄賃稼ぎが行われ、養蚕や郡内織も発達した。村域においてもこれらの生業のほか、山中湖における漁業が行われていた。加古坂峠に口留番所が置かれ運輸機能が強化され、駿河方面と経済圏を形成している。
近代には入会地が官有地化された。明治22年には皇室財産として御料地への編入となった。
馬鈴薯やトウモロコシの栽培、織物などの新たな産業が取り入れられたほか、戦後には観光に力を入れている。
1875年(明治8年)1月 - 都留郡山中村、平野村の統合により中野村が発足。
1878年(明治11年)12月19日 - 郡区町村編制法の山梨県での施行に伴い都留郡が分割され、南都留郡所属となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、中野村が単独で自治体を形成。
1957年(昭和32年)7月9日 - 昭和天皇、香淳皇后が村内に行幸啓。沖新国有林を視察。
1965年(昭和40年)1月1日 - 山中湖村に改称。
2020年(令和2年)12月1日 - 村名変更55周年を記念し「山中湖村民歌」を制定。