長野原町: 歴史
=== 先史時代 ===
長野原町の先史時代の遺跡・遺物は、新石器時代のものが多い。遺跡・遺物の検出地は概ね山稜地帯にある。これは、1783年に起きた浅間山の天明大噴火に伴う泥流により、低地は土砂に埋もれてしまったためである。石器では石鏃、石斧などが数多く出土している。土器も出土しているが、ほとんど破片の状態で出土しており、完形のものは極めて少ない。
大字大津字勘場木では縄文時代の住居跡が検出されている。
この時代の特徴的な遺跡である古墳は、長野原町では3基(いずれも円墳)しか確認できない。西吾妻で見ても7基であり、東吾妻の200基と比べてその差はあまりに大きい。浅間の泥流の影響や、険阻な地形による土砂崩れで流出したとしてもその差は歴然としている。
奈良・平安期の遺物である瓦塔が長野原町中央小学校工事の際に出土している。出土したのは塔の一部にとどまり、全体像をつかむことはできない。
この時代も、長野原町の歴史を史料の上で確認することはできない。
古来より三原(西吾妻一帯をさす言葉として使われていた。)に源頼朝が巻狩に来たという伝説がある。西吾妻の地名や温泉の由来に源頼朝が関わっているとされるものも多い。長野原町内にある川原湯温泉も源頼朝の巻狩の際、発見されたと伝えられている。
史料として信用度の高い『吾妻鏡』には、下野国那須、信濃国三原(当時西吾妻地方は上野国ではなかった)の巻狩へ源頼朝が出発したとの記述がある。しかし、その記述を追っていくと、結果として三原には行かなかったということがわかる。
一方で、『曽我物語』では、この三原の巻狩についての記述があるが、史料的価値から見ると信用することができない。江戸時代元禄期の『再編吾妻記』にも三原の巻狩の記述がある。しかし、これは伝説と『曽我物語』を元に書かれたものでまったく信用することができない。
源頼朝の三原の巻狩は伝説に過ぎないとも言えるが、このような伝説が古くからあったという事実はある。長野原町には、三原で源頼朝が落馬して、死亡し、長野原町のどこかに埋葬されたというような伝説もある。『吾妻鏡』の三原の巻狩の記述の欠如を説明する為に作られた後付けの話か、それとも、原伝説の一部なのかは全くわからない。
「長野原町」を構成する旧町村は、明治5年の大小区制で第二十大区に編入され、現在他の町村となっている村も含めて、それぞれ第10小区、第11小区、第12小区に分けられた。明治11年に郡区町村制に移行すると、「長野原町」には3つの戸長役場が設置された。その後、町村制施行後の1889年(明治22年)5月15日にこの3つの戸長役場の行政区域に属する10町村が合併し、長野原町が誕生した。
※10町村は以下の通り。長野原町、大津村、羽根尾村、与喜屋村、古森村、川原畑村、川原湯村、横壁村、林村、応桑村。
明治の大合併以降、合併を行っていない数少ない自治体のひとつである(県内では他に、上野村や嬬恋村、高山村、片品村、川場村がある)とともに、当初から町制を施行している町でもある。なお、町村制施行当初に町として発足し、現在まで市制施行も他市町村との合併も一切行なっていない町は日本全国でも長野原町と酒々井町(千葉県)の2町のみである。
平成30年(2018年)12月25日より、町役場が新庁舎に移った。。