大潟村: 歴史
=== 村名の由来 ===
平安時代の頃「大方(おおがた)」と呼ばれていた八郎潟は、のちには「大潟」と記すように変わったと伝えられている。村名はこれに基づき、公募によって全国から寄せられた候補の中から、1964年(昭和39年)7月22日に選定された。
新しい型式の農村を開発して、大規模農業を本格的に行うモデル農村となった。農家一戸あたりの水田は10haである。大型機械を導入して住宅を1か所にまとめ、農場には自動車で出かける生活をパターンとする近代的な大規模農業経営が進められた。
1970年(昭和45年)からの減反政策により国は米作りから畑作への転換を推奨した。国は大潟村にも米作りから畑作への転換を迫ったが干拓後間もなく水はけが悪く、畑作に向かない土地だった。米作りのエリートの誇りがあった「ヤミ米派」と、国の方針に従う「順守派」に分かれて対立したが、1995年(平成7年)の食糧管理法の廃止で自由に米がつくれるようになった。全財産を処分することを条件に入植した農民の中には、経済苦から自殺者も多数出現した。離農も相次ぎ、また残留して非正規流通米を生産し続ける農家もある。2009年(平成21年)の民主党への政権交代後は米粉のかたちでの生産を許容してはいるが、日本の減反政策の犠牲になったモデル地区であり続けている。
1957年(昭和32年)4月:八郎潟で干拓事業が始まる。
1964年(昭和39年)
7月22日:全国公募を基に村名を「大潟村」に決定する。
10月1日:南秋田郡大潟村が発足。秋田県内で69番目の地方自治体として、開村時の人口は6世帯わずか14人であった。
1965年(昭和40年)8月:八郎潟新農村建設事業団が設立される( - 1978年)。
1966年(昭和41年)9月:県農協連大潟村総合事務所(大潟村農業協同組合の前身)が発足して、入植訓練所で業務を開始。
1967年(昭和42年)
11月:第1次入植者56名(応募者615人)が入村。
12月:大潟村役場庁舎が完成。
1968年(昭和43年)
3月:五城目警察署大潟村警察官連絡所が大潟村役場内に設けられ、警察官1名が配置。
4月:村の保育所が開所。
6月:大潟村消防団が団員15名で発足。
11月1日:大潟村立大潟中学校および大潟村立大潟小学校が開校する。
12月:大潟村立大潟小学校の校舎が完成。
第2次入植者86名(応募者281人)が入村。
1969年(昭和44年)
1月29日:大潟村立大潟中学校、大潟村立大潟小学校、大潟幼稚園が合同で開校式を挙行(ただし、中学校校舎と幼稚園園舎はまだ無く、小学校校舎が共同利用された)。
7月1日:公募作品を基に村章を選定。
博覧会の開催に先立ち、大潟村公民館と展望塔が完成。
8月2日- 9月25日 :秋田農業大博覧会が開催。
10月:八郎潟中央干拓地水管理区が設立。
第3次入植者175名(応募者309人)が入村。
1970年(昭和45年)
大潟村立大潟中学校校舎の建設が始まり、同年中に完成。
9月:大潟村農業協同組合が設立。
新規開田抑制施策・米生産調整(減反政策)が始まり、第4次入植の入植者募集を中断。これ以降、大潟村民は多大な影響を受ける(→#減反政策)。
第4次入植者143名(応募者389人)が入村。
1971年(昭和46年)4月:湖東病院[1974年に湖東総合病院に改称され、2015年に現在の湖東厚生病院として隣接地に新規開院])の委託診療所として、大潟村診療所が開所。
1972年(昭和47年):大潟幼稚園園舎が完成して、小学校校舎および中学校校舎の中学校・小学校・幼稚園による共同利用が終わる。
1973年(昭和48年)
6月1日:男鹿市・南秋田郡天王町・若美町・大潟村の1市2町1村による男鹿地区消防一部事務組合が設立。
8月:五城目警察署大潟村警察官連絡所が「大潟村警察官派出所」に改称。
8月:大潟土地改良区が設立。
1974年(昭和49年)
大潟村診療所が医師常駐となる。
第5次入植者120名(応募者870人)が入村。
1975年(昭和50年)12月:大潟村の議場が完成。
1976年(昭和51年)10月:大潟村の農業委員会が発足。
1977年(昭和52年)3月:20年に及ぶ歳月と総事業費約852億円を掛けた八郎潟の干拓事業が完了。
1978年(昭和53年)
秋田県の単独事業である玉川ダム建設に伴う最終入植者9名が入村し、最終的に入植者は全国38の都道県から集まった589名となった。最多は秋田県からの323名、次いで北海道からの83名であった。
八郎潟新農村建設事業団が解散(1965年 - )。
1979年(昭和54年)9月5日:男鹿地区消防一部事務組合大潟分署(男鹿地区消防署大潟分署)が開設。
1983年(昭和58年)5月26日:日本海中部地震が発生して、秋田県を含む東北地方で多大な被害が出るなか、大潟村でも干拓堤防の決壊や道路の寸断など大きな被害が出る。のち、この日が「県民防災の日」となった。
1985年(昭和60年):不正規流通米が社会問題化し、検問が実施される。
1992年(平成4年):秋田県測量設計業協会が創立20周年を迎えるにあたって大潟村に企画を持ちかけ、共同で大潟富士の造成に着手する( - 1995年完成)。
1993年(平成5年):大潟村内の一般公道を使って、次世代電池自動車レース「ワールド・ソーラーカー・ラリー」の第1回大会が開催。
1994年(平成6年)
次世代電池自動車専用道路「ソーラースポーツライン」が開通。
開通したソーラースポーツラインを使って「ワールド・ソーラーカー・ラリー」第2回大会が開催( - 2011年時点で継続中)。
1995年(平成7年)
6月3日(測量の日):大潟富士の竣工式(1992年着工 - )。
ソーラースポーツラインで次世代電池自動車レース「ワールド・エコノ・ムーブ」第1回大会が開催( - 2011年時点で継続中)。
ソーラースポーツラインで自転車競技の全日本選手権個人タイムトライアル・ロードレース第1回大会が開催( - 2011年時点で継続中)。
1996年(平成8年)
4月26日:大潟村字北で、自治体・第三セクター経営の「ホテル サンルーラル大潟」が開業。cf.
国営男鹿東部農地防災事業(防潮水門、南部・北部排水機場などの改修工事)に着手。
2000年(平成12年):大潟村干拓博物館が開館。
2006年(平成18年)
4月18日- 20日:環境問題を抱えながらセマングム干拓事業を推し進める韓国農村公社のプロジェクトチームが韓国放送公社 (KBS) と共に大潟村を訪問し、八郎潟干拓事業による環境観察などについて視察と取材を行う。
4月29日- 5月7日:第1回「桜と菜の花まつり」開催(「菜の花イベント」を改称)。
2007年(平成19年)
大潟村内を貫流する中央幹線排水路が第62回国民体育大会(秋田わか杉国体)のボート競技コースになる。
11月8日:総事業費304億円を掛けた国営男鹿東部農地防災事業の完工式。
2008年(平成20年)
1月11日:八郎潟が日本で11番目の湖沼水質保全特別措置法指定湖沼となる。
6月1日:秋田県道42号男鹿八竜線上で「道の駅おおがた」が開業。
10月1日:村内を走っていた秋田中央交通の路線バスが廃止。以後は廃止代替バス「大潟村マイタウンバス」が運行。
2010年(平成22年):大潟村と男鹿市が「男鹿半島・大潟ジオパーク」の登録を目指して「男鹿半島・大潟ジオパーク推進協議会」を立ち上げ、ユネスコへの登録申請に向けて準備を開始。
2017年(平成29年)
12月:村内初のコンビニエンスストア、セブン-イレブン秋田大潟店が開店。長らくコンビニ空白地帯であった状態が解消された。翌年3月にはJA大潟村が運営するローソン大潟村店が開店。JAが直営するローソンは全国で初めてである。
2023年(令和5年)12月11日:入植予定者のモデルハウスだった、旧大潟村入植予定者観覧用農家住宅が登録有形文化財に登録