Heimatgeschichte · Sarufutsu ·

猿払村: 歴史

猿払村: 歴史

江戸時代中期頃より、松前藩管理の場所請負制による漁場が開設される。
1878年(明治11年)、北見国宗谷郡に6か村が設定される。
1882年(明治15年)、廃使置県にともない札幌県に移管。
1919年(大正8年)11月、浜頓別 - 浅茅野に鉄道敷設。
1920年(大正9年)11月、浅茅野 - 鬼志別が開通。
1922年(大正11年)11月、鬼志別 - 稚内が開通し、宗谷本線(後の天北線)となる。
1924年(大正13年)10月、宗谷村(現稚内市の一部)から分村し、猿払村として二級町村制を施行。なお猿払村は1909年に宗谷村に合併しており、元に戻った形である。
1934年(昭和9年)12月、樺太との間に海底ケーブルが敷設、浜猿払に中継所が設置され、本州との間で電話が開通。
1939年(昭和14年)12月12日、ソ連船「インディギルカ号」が浜鬼志別沖合で座礁。多数の死傷者を出すものの、村民により多くの人命が救助される。
1942年(昭和17年)6月、大日本帝国陸軍航空本部浅茅野飛行場建設工事開始。第一、第二飛行場ともに1944年末に完成。勤労奉仕の村民が多数動員される。
1947年(昭和22年)、終戦後の引揚者の入植などにより、内陸地の戦後開拓が進む。産業では炭鉱、林業(王子製紙)、酪農が中心。
1953年(昭和28年)8月8日、猿払村沖でソ連船「ラズエズノイ号」による領海侵犯(ラズエズノイ号事件)。
1954年(昭和29年)頃よりニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされる。
1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)にかけて炭鉱の閉山が相次ぐ。林業も衰退し、酪農を除いた村内の産業経済が完全に停滞。当時は「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどのありさまであり、住民の生活は困窮を極める。
1967年(昭和42年)1月、村内の鬼志別郵便局の職員が第31回衆議院議員総選挙の選挙ポスターの掲示・配布を行う。この行為が国家公務員の政治活動として処罰されたことに関して最高裁判所まで争われ、憲法学上の重要事件の1つとなる(猿払事件)。
1971年(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施。以降、巨額を投じてホタテ放流事業に村の復興を賭ける。
1979年(昭和54年)、故障したモーターボートに乗ったソ連人が浜鬼志別港に漂着。空に向かって銃を発砲したため稚内警察署に逮捕される。後にカモ猟をしていて北海道まで流され、警察を呼ぶために故意に発砲したと供述。
1981年(昭和56年)、ホタテ漁業造成事業を終了。以後、計画的な稚貝放流と徹底した資源管理によりホタテ水揚を維持することとなる。これにより、村は宗谷支庁(現・宗谷総合振興局)内高所得者の6割を抱える、全国でも有数の高所得自治体となる。
1983年(昭和58年)、大韓航空機撃墜事件により、村内海岸に遺体や漂流物など多数漂着。
1989年(平成元年)5月1日、天北線が廃止されバスに転換、村内から鉄道がなくなる。
1994年(平成6年)7月10日、開村70周年記念式典挙行。
2019年(令和元年)、村の沖合にある無人島、エサンベ鼻北小島の海没が確認される。

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Quelle: Text: Wikipedia – „猿払村“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Yobito KAYANUMA, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons