上小阿仁村: 歴史
=== 沿革 ===
1591年(天正19年) - 秋田実季の太閤検地による領地目録の中に「小阿仁村」として記録されている。
1813年(文化10年) - 旧北秋田郡荒瀬村根子集落(現在の北秋田市阿仁根子)のマタギである村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門の3名が八木沢集落に移住、定着する。徳助は村田組に所属するマタギ、三之助は山田六之丞シカリから分家、七左衛門も善兵衛シカリから分家している。
1822年(文政5年) - 萩形集落は約10km北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。1966(昭和41)年、県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに離村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、小沢田村・五反沢村・福館村・杉花村・堂川村・仏社村・沖田面村・大林村・南沢村が合併し上小阿仁村が発足。
「平成の大合併」のおり、当初鷹巣阿仁部の五町村で合併が話し合われていたが、上小阿仁村は合併協議会から離脱し、単独立村を選択した。
2012年(平成24年)8月29日 - 明治22年の町村制施行以来、初の「八木沢マタギ狩猟用具」5点を村の有形民俗文化財第1号に指定(上小阿仁村教育委員会)。
2025年(令和7年)9月2日 - 集中豪雨により小阿仁川支流の河川が氾濫。
房住山が修験の場として開かれていた頃、房住山一帯を支配していた高倉長者という族長がいた。その長者に「たつこ」というひとり娘がいた。この娘の婿は阿仁と言ったので、人々は彼のことを「阿仁殿」と言った。ところが、婿をとってしばらくしたら長者に男子ができた。長者は後に財産の争いが起き、血を見ることがないようにとクジ引きで土地を分け与えることにした。その結果、娘婿の阿仁殿は米ヶ沢(米内沢)、実子は鎌ヶ沢(鎌沢)に住みそれぞれの地を支配することになった。その後、二人は奥地を切り開き、娘婿は「大阿仁」と言われる比立内地区まで、実子の方は「小阿仁」とよばれ萩形までをそれぞれ支配することになった。
沖田面(翁面)集落の名前の由来は「昔、川西の深山に、大樹が折れた霊木があった。木こりはそれに注連縄を張り付け祀ると、上の注連縄は白髪のように、下の注連縄は白鬚のように、そして木肌は風雨に曝されて紅白の色をなし、幹は鉄や石のように硬く、節やコブが自然に目鼻口耳の形をして、老翁の面のようになったのを後年村の名とした。ある時、一人の高僧が来て、その霊木なるを感じて、切り観音像を彫ってそこに祠を建てた。村はこれによって繁栄した」というものである。この説話も『房住山昔物語』や『房住山古伝記』などの房住山の伝説の一部として語られていた。菅江真澄はこの霊木の絵を残している。
上小阿仁村を代表する「マタギ集落」は八木沢と萩形で近世、阿仁マタギなどの狩猟民によってきり開かれた。萩形は1966年(昭和41年)、県営第1号となる「萩形ダム」が完成したのをきっかけに離村。一方、八木沢は2009年春、集落ただ一人の古老マタギである佐藤良蔵が鉄砲を返納し、生業とするマタギ集落が消えた。
萩形は1822年(文政5年)、約10キロ北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。1700年代に入り、菅江真澄翁の「月のおろちね」に阿仁マタギが移住以前にマタギ小屋や祠があったとされ、当時は一年の狩猟に依りて生計を立てたとされる。主峰、太平山(1171メートル)を背に奥羽山脈を旅する阿仁マタギの砦でもあり、戦前はバンドリ(ムササビ)やテンなどの毛皮が軍向けに高く売れた時期もあり、マタギを生業とする狩猟文化が盛んであった。1966年、秋田県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに約10戸が水没し、残りの30戸ほどの住民も故郷を後に方々へ散った。集落の外れに、1969年(昭和44年)に村の消滅とともに建てられた「離村記念碑」に当時の家長たち38人の名が刻まれ静かに佇む。
八木沢集落は1813年(文化10年)、旧北秋田郡荒瀬村根子のマタギが移住して地域共同体に定着している。根子はマタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった万次・盤(万)三郎を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい長男相続制のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど、マタギ文化が広範囲に拡散されている。
1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄は、マタギの里として知られる奥阿仁地域を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。
菅江真澄が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門の三軒が定着する。この集落は近世の江戸時代から出羽丘陵・奥羽山脈での狩りをする狩猟民の中継地点であった。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち、俗信、禁忌があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえて、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化した。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこの家にもあった。みんながマタギ、自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を作った」。しかし、マタギ集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となった。そして、ついに2009年春に集落最後の古老マタギ佐藤良蔵が所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。わずかに残された伝承や信仰、俗信、禁忌などを語る者は、古老のみとなったという。
近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。