檜原村: 歴史
=== 立村前 ===
現在、檜原村村域となっている地域には縄文早期以降、人が住んだ跡が幾つも発見されている。縄文中期になると、現在の檜原村の各集落がある地域にはそれぞれ1家族から3家族程度の規模で人が定住していたと考えられている。縄文期の村域の人口は20人から40人程度であったと推測されている。
古墳時代になると、大陸からの渡来人系の集団が近畿地方から移住したと考えられている。人里(へんぼり)集落の名前の由来は、「フン」「ボル」(モンゴル語で人間を意味する「フン」と、新羅語で集落を意味する「ボル」)が訛ったものではないかとの説もある。
8世紀頃、河内にいた高麗系の渡来人集団である高安氏と橘戸氏は人里集落の渡来人系集団を頼って来住し、南秋川沿いにある人里から浅間尾根を越えた北秋川沿いに定住した(現在の小岩)。この集団の長は代々「宿辺少将橘高安(やどりべのしょうしょうたちばなたかやす)」を名乗った。
北秋川と南秋川を隔てる浅間尾根には、とある高貴な人物の墓所があると小岩集落で口伝されてきた。これについて平安時代の安和の変との関係を指摘する意見もある。それによると、安和の変の際に追っ手がかかった源連(みなもとのつらぬ)は東国に逃亡して橘高安にかくまわれ、後に為平親王の第4子為定親王(源為定)を呼び寄せたとされる。小岩集落にある「王子が城」「タメサダヤカタ」の古地名がその理由として挙げられている。
あきる野市の大悲願寺の過去帳および小岩の宝蔵寺の縁起(勝軍地蔵縁起)によると、宝蔵寺の創建は12世紀から13世紀にかけて活躍した平山氏(日奉氏)の武将、平山季重とされている。このことから、12世紀頃には武蔵七党の日奉氏(西党)の勢力が村域に及んでいたと推測されている。平山氏はその後、1546年の河越城の戦いを経て後北条氏に仕えた。
また鎌倉時代には和田義盛や吉野重季の一族が落ち延びてきて村域に住んだとの伝説が残されており、和田集落は和田一族が住んだ場所であると考えられている。また数馬集落は南北朝時代に南朝側で戦った小野氏経が移り住んだ集落である。その他にも、甲州征伐での武田氏滅亡の際に逃げてきた人々が神戸集落に定住したなど、各集落には様々な時代に村域に逃げてきた落人が家の先祖であるとの口伝が数多く伝わっている。
太神楽や式三番が始まったのもこの時期で、前者は1545年、後者は1561年に創始されている。
1590年の豊臣秀吉の関東侵攻の際、後北条氏に仕えていた平山氏重は檜原城を守り、八王子城の落城と同じ日に檜原城も落城して氏重は敗死している(これにより平山氏本家は滅亡)。檜原城の落城の経緯には諸説あり、氏重と八王子城代家老の横地堅物は一戦して敗北したという説と、氏重らは戦わずに城を捨てて自刃したという説がある。また氏重の息子の氏久は宗白と改名して、檜原城落城後も引き続き檜原に居住したとされる。
江戸時代の檜原は天領となり、代官が置かれた。五日市から浅間尾根を通って甲斐国に抜ける道は甲州中道と呼ばれ、甲州道中の裏街道として盛んに利用された。本宿の橘橋には番所が置かれ、甲州中道を通る者を監視した。この番所は「口留の番所」と称した。
檜原は代官の下で23の組に分けられていた。村民の代表者として世襲制の名主がおり、また各組にはそれぞれ年寄と百姓代が置かれていて(合計で46人)、住民による自治が行われていた。主な産業は炭焼きや林業であった。檜原で焼かれた木炭は五日市に運ばれて売却された。1789年に檜原からこの販路で出荷された木炭は13万5163俵であった。江戸の街作りや火事によって檜原の木材需要は増え、林業も盛んになった。当初、檜原には木挽き師や杣師がいなかったので、青梅から技術が導入された。この頃の檜原の山林はモミ、クリ、ケヤキ、ツガなどの原生林であった。切り出された木材は筏師によって秋川、多摩川を流され、江戸市中へと出荷された。
新編武蔵風土記稿によれば、23組は以下の通り。
本村上組、本村下組、泉澤組
(南谷十組) 柏木野組、出野組、下川乗組、上川乗組、和田組、事貫組、上平組、笛吹組、猿屋敷組、数馬組
(北谷十組) 中里組、白倉組、大澤組、神戸組、小澤宮ヶ谷戸組、小澤夏地組、小岩組、笹久保組、澤叉組、倉掛組
明治維新後、村は最初韮山県に属し、1871年には神奈川県となった。この年には戸長が置かれ、その時点で名主であった吉野郡次が戸長となった。村域は江戸時代以前と変わらないものの、地租改正に伴い1876年に村内に13の字(中字的なもの)が設置された。また地番として、1番地〜5209番地までの宅地番(畑番)と、5210番地〜9492番地までの山地番(山番)が二巡制で採番され、現在もそのまま利用される。
東部:下元郷、上元郷、本宿(3組)
南部:南郷、人里、数馬(3組)
北部:三都郷、神戸、大岳、小沢、桧里、藤原、倉掛(7組)
1889年(明治22年)4月1日、 町村制施行により立村。
(立村当時は神奈川県西多摩郡檜原村)戸長役場が村役場となり、上元郷に置かれた。初代村長は選挙により吉野郡次が当選した。しかし1881年頃から村人の間で村政の主導権を巡って争いが続いていた。1893年(明治26年)4月1日 、西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に東京府へ編入された。これに伴い、檜原村も神奈川県から東京府の一村となった。だが前述の内紛のあおりを受けて、東京府編入の直前に助役、収入役、村長が辞任するという事態となった。さらに5月に新しく選出された村長が8月には辞任してしまい、村の自治は大混乱となった。
この村内の対立と混乱はなおも続き、1898年から3年間は村長そのものが不在となった。村長不在の事態は村外の人間の官選村長就任によって解消され、6代目から8代目までの3人が村外の官選村長となった。しかし村内の対立は解消されず、分村問題が浮上することになった。この時の分村問題は「南檜原区会」の設立という妥協案にて何とか収拾を見たものの、1913年には再び分村問題が再燃し、1915年には「南檜原区会」が分村を求めて国会や東京府、西多摩郡に請願書を提出した。この分村は東京府や西多摩郡の説得によって回避されたが、「南檜原区会」は1941年まで存続した。
1943年(昭和18年)7月1日、都制施行により、東京府、東京市が統合して東京都が新設され、檜原村も東京都となった。
1964年(昭和39年)8月1日、由木村が八王子市に編入されて廃止。これにより、檜原村が東京都内の本土唯一の村となる。
1984年(昭和59年)3月31日、防災行政無線が開局する。
=== 昭和・平成の大合併 ===
昭和の大合併や、現在の市町村制度の基礎が成立した1889年、およびそれ以前から含めても400年以上に渡って一度も市町村合併を行わずに単独での自治体形成を保っている。これは島嶼部を除いた東京都の自治体では唯一である。また、その当時からずっと村制のままで単独存続しており、これは東京都はもちろん、首都圏の自治体の中でも非常に珍しいパターンである(同様の例としては隣接する山梨県小菅村がある)。