川内村: 歴史
=== 原始・古代 ===
阿武隈高地の真只中に位置する川内村は、四方連峰の高原性盆地をなす。大滝根山北麗に源を発する木戸川は、山々の谷筋から流れ出る河水を呑み込みながら肥大し、村の中央平地を南下する。原始から古代の遺跡は、この河川に面する丘陵上に多い。上川内の後谷地・高田島近辺に15箇所、上川内の長網川・楢生川流域に8箇所、上川内の小白井川流域に8箇所、下川内の川内川沿いに2箇所、下川内の平沢川・北川原川流域に3箇所が認められ、他若干の例を総計すると、これら木戸川水系には40箇所の遺跡が知られている。また、下川内の割山峠を境に、東は富岡川に入る水系となるが、この方面に25箇所ほど記録されているので、現在までのところ川内村における遺跡の数は65箇所内外ということになる。
狩猟採集を生活の基盤とする縄文文化のうち、早期に属する遺物は2、3の遺跡で知られている。そのうちでも、とりわけ古い時期に想定されるものは、富岡川水系の下川内・糠塚G遺跡から出土した日計型押型紋土器である。この土器は東北地方に主体的に分布するが、現在のところ川内村最古の縄文土器といえよう。糠塚G遺跡は、この時期以降に入る早期の資料も含まれている重要遺跡であったが、主要部は湮滅した。
糠塚G遺跡から約1キロメートル南に下がった地点に糠塚C遺跡がある。ここからは、糠塚Gに後続する土器(太平式)や微隆起線をもつ貝殻紋土器(規木I式系)が発見されており、縄文早期文化の動向を窺い知ることができる。
川内村で縄文文化が隆盛するのは前期においてである。下川内、田ノ入遺跡、上川内・大根森遺跡からは大量の資料が発見されているが、前者では平面が長方形の竪穴建物1棟を完掘している。縄文時代中期は上川内・後谷地C遺跡が著名。縄文時代後・晩期になると、下川内・手古岡B・C遺跡、下川内・糠塚F遺跡に多くの資料を見る。下川内・平澤遺跡から出土した有紋頭の石剣は、工芸的にも優れた一品とされる。
生産経済となり、稲作りや、金属器の製作を行うようになった弥生文化の遺跡は、川内村の立地特性が因果してか、明確な例がない。ただ、出土地不詳の村内採集資料中には中期に編入しうるものが含まれている。
畿内で大王を頂点とする政治組織が成立した古墳文化は東北地方にもおよび、各地に根を張っていったが、川内村ではまだ充分にその存在は判明していない。
奈良時代・平安時代の遺物は、平地に降りた上川内・町分で確認されている。庇を持つ建物跡その周辺に置かれた土師器がある。平地内には、この時代の遺跡の埋没は少なくないと推定しうる。
陸奥・出羽両国の中世の始まりは、文治5年(1189年)に源頼朝が平泉の奥州藤原氏を攻略した時期に求められる。
常陸国(現・茨城県)から菊田関を超えて多賀城(宮城県)に北上する海道に沿った諸郡(菊田・岩崎・岩城・楢葉・行方・宇多・亘理)は、この時期に鎌倉幕府の支配下に入ったのである。海道諸郡の在地武士は、鎌倉幕府の有力御家人のひとり千葉介常胤の指揮を受けた。そして、常胤の次男相馬師胤は行方郡を領し、四男大須賀四郎胤信は、好嶋庄の預所職に補任されたのである。好嶋庄赤目崎(いわき市平)に建立された飯野八幡宮を奉斎する鎌倉幕府の、海道南部経営の一大拠点となった。
鎌倉時代を通じて、海道諸郡は幕府の濃密な支配を受けたのである。南北朝時代の動乱の過程で、海道には国人領主が成長した。岩崎氏・岩城氏・楢葉氏・相馬氏などである。かれらは、室町時代においては鎌倉府と奥州探題のはざまの中で確執をくりひろげ、やがて戦国大名として、岩城氏と相馬氏の両雄が海道を分断して対抗した。楢葉郡は岩城・相馬の双方が攻略を目論んだ地域であった。
飯野平城に拠る岩城親隆は早くも文明6年(1474年)には楢葉氏を攻略し、猪狩氏を置いて相馬氏への備えとした。富岡町にある日向館は岩城領国の北方の拠点であった。そして猪狩氏は西方の田村氏への備えとして下川内に神山城(館山)を築城したのである。川内村にはこのほかに持留館・台窪館・勝山館・大都辺古城がある。持留館は、小白井川沿いの綱木を経て川前町上桶売の鹿又川に沿う高部館と連動して田村領への押さえとなっていた。
戦国時代の川内村を知る手がかりは、それらの城館跡のほかに地名伝承があるぐらいである。文禄4年(1595年)豊臣政権下の検地によれば、岩城領五郡の総石高はおよそ十一万五千石であり、楢葉郡上・下川内村の高数は八百十石余であった。この生産力から見て、人口は八百人ほどであったろうか。
この文禄検地こそ、中世をしめくくり、近世的土地支配の開始を告げるものであった。中世の川内は岩城氏の領境の守りの村であったが、それゆえに海・山の幸(情報・文化を含む)を渇望し、時代の動向に鋭敏な村人の住む里でもあったろう。
永年にわたる武家の支配が終焉し、新しい文明開化の明治の世になった。しかし一般民衆が待ち望んだ方向と異なり、明治6年(1873年)地租改正が公布され、全国一斉に土地丈量・地価算定が厳格に実施された。
この結果、上・下川内村に存在した御林はともかくも、散野(村の共有地)までが国有林に編入された。自由に自分達の山林に馬を放牧、あるいは木材・薪などを得ていたが、一旦国有地となれば、かつての散野に入り木を伐採することは、あきらかに盗伐となり罪人となった。
ほとんど私有山林のない村民にとって明日の生活にも事欠く状態となり、まさしく暗礁の時代であった。
こうした生活の中、明治22年(1889年)4月町村制公布により上・下川内村が合併、新しく川内村が誕生。初代村長に秋元房輔が就任した。
明治31年(1898年)、官林官有地縁故引戻下の申請運動が開始された。政府相手の行政訴訟は困難が続出、特に裁判費用に事欠き、明治36年(1903年)山林下戻行政訴訟に関する一切の件を吉田文三に委任、よって新しい局面を迎えた。ついに同43年(1910年)12月、翌年(1911年)11月の両度における判決に勝訴となった。
全村民一丸となった山林引戻運動の成功によって、新しい村づくりの基本となるべき施業案が打ち出された。この施業案により公有林の経営をなし、村の収入が大幅に潤うことになった。
しかし、太古より斧が入ることが無かった原始林の大木が、裁判費用、村の収入のために次々と切り倒されたことで、森林は荒廃していった。こうした反面伐採のため各地より多くの山林労働者が村内に移住し、更にそうした労働者を対象とする商業者も数多くなり、たちまち人口の増加を来し、丸三時代と称される川内村の繁栄期が訪れた。
昭和2年(1927年)村有林の利益の増大により、全国にも希な村税の廃止を行い、「無税川内村」の名が広く知られた。
大正から昭和に移る激動の時代、一寒村である川内村が、五十万俵という大量の木炭を生産、日本一の生産地となり、永年にわたる木炭の改良が実を結んだ。村政百年の計として三瓶於兎吉村長による植林運動が開始された。
しかしこの運動も、しだいに戦争の暗雲が広がり戦時体制が強化されると、実行されず、軍馬の飼育、木炭の増産が叫ばれ、村民は軍国主義一色となった。 …