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音威子府村: 歴史

音威子府村: 歴史

=== 江戸時代 ===
音威子府の名が初めて登場するのは1797年(寛政9年)の『松前地並西蝦夷地明細記』で、「ヲトヱ子フ」と表記されている。当時はテシホ場所に属していた。
1857年(安政4年)に松浦武四郎が天塩川流域を訪れ、現在の音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の元に宿泊。それによりアイヌによる北海道(蝦夷地)の通称「カイナー」の意味を知る。「カイ」はこの国に生まれた者、「ナー」は尊称であった。アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」を意味する「カイ」を取り入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。しかし近代から現代のアイヌ語研究では「カイ」に「この国に生まれた者」という意味は見出せず、この記述は謎の一つとなっている。(「北海道#概要」も参照。)

1896年(明治29年)に始まった旭川から北方への道路建設は、1904年(明治37年)の常磐駅逓所(現在の咲来地区)の開設によりようやく現在の音威子府村域に到達した。このとき、駅逓取扱人の長村秀(石川県出身の北海道庁吏員)がこの地に移り住み、これが音威子府村の開基となった。翌年には御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植した。以降、大正に入るまでに約200戸が村内各地に入植した。
1912年(大正元年)11月、鉄道省の天塩線(後の国鉄宗谷本線)の名寄駅 - 音威子府駅間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置された。音威子府駅周辺は天塩川水運と鉄道の結節点として、また以北の鉄道建設の拠点として急速に発展し、市街地を形成した。1915年に北見線(のちの天北線)が、1922年には天塩線が音威子府駅以北へと延伸すると、両線の分岐する鉄道の町として発展を遂げていった。最盛期は、人口5000人のうち3割を国鉄関係者とその家族が占めていたという。しかし、国鉄の合理化、1980年代の国鉄分割民営化、天北線の廃止(1989年)と駅業務の縮小、それに伴う職員の首都圏への異動などにより人口が激減した。
1971年(昭和46年)、村では過疎化対策として第1期総合計画を策定、天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行った。1981年(昭和56年)には「森と匠の村」を標榜した第2次計画を実施。1978年(昭和53年)から筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えたこともあり、豊富な森林資源を生かした工芸の村としての活性化を目指した。普通科であった村立音威子府高等学校に工芸教育を取り入れ、1984年(昭和59年)には北海道で唯一の全日制工芸科高校へと学科転換した(現在の北海道おといねっぷ美術工芸高等学校)。また、村内各所にトーテムポールをはじめとする木工作品が設置されている。

1916年(大正5年):中川郡中川村(現中川町)から分村、中川郡常盤村(ときわむら)となる。
1963年(昭和38年):音威子府村に改称する。
1989年(平成元年):JR天北線廃止。
2010年(平成22年):人口が1000人を割り込む。

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Quelle: Text: Wikipedia – „音威子府村“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Rsa, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons