横浜市: 歴史
=== 現市域各地の前史 ===
横浜市内における遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)の分布状況は、市教育委員会刊行の『横浜市文化財地図』や、市の公開する行政地図情報(遺跡地図) で参照可能だが、市域内の遺跡数はおよそ2500か所にのぼる。ただし大都市横浜にあって、この内の1700か所はすでに全域的または部分的に開発などによる破壊を受けているという(1998年時点)。
旧石器時代の遺跡は、矢指谷遺跡や北川貝塚・花見山遺跡・けんか山遺跡など、およそ25か所発見されている。
縄文時代の遺跡は市内各所にみられるが、市北部の都筑区では、1970年代から80年代に港北ニュータウン開発に伴って200を超える遺跡が一斉に発掘調査された結果(港北ニュータウン遺跡群)、南堀貝塚や北川貝塚をはじめ三の丸遺跡・二ノ丸遺跡・月出松遺跡・神隠丸山遺跡・華蔵台遺跡など、縄文時代全時期に亘る多数の集落遺跡(貝塚含む)が発見されている。
弥生時代の遺跡は、弥生中期までは少ないが、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡(国の史跡)・大原遺跡(おっぱらいせき)・権田原遺跡(ごんたっぱらいせき)、青葉区の朝光寺原遺跡、港北区の日吉台遺跡群など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。
市内における古墳時代の古墳の出現は3世紀後半とされ、現在確認されている市内最古の古墳は2005年(平成17年)に発見された港北区の新羽南古墳(3世紀後半の円墳)である。なお4世紀段階では、弥生時代以来の方形周溝墓のほか、弥生墳丘墓から古墳へと発展する過渡的な特徴を持つ陸橋付き方形周溝墓が併存しており、青葉区の稲ヶ原遺跡などでこの種の方形周溝墓が検出されている。その後4世紀~7世紀にかけて市内各所に古墳(群)や横穴墓(群)が出現したほか、矢崎山遺跡など、同時代の集落遺跡も形成されるようになる。青葉区の朝光寺原古墳群・稲荷前古墳群・市ヶ尾横穴墓群・荏子田横穴、港北区の観音松古墳(日吉台古墳群の1つ。神奈川県内最大級の前方後円墳)、戸塚区の富塚古墳、西区の軽井沢古墳などはこの時代の遺跡である。磯子区の三殿台遺跡(国の史跡)は、縄文時代・弥生時代・古墳時代の集落が同じ台地上に営まれた複合遺跡として知られる。
市域の地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』の安閑天皇元年(534年)の条とされる。武蔵国に住む豪族が、橘花(たちばな。橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くらき)郡、さらに久良岐郡)ほか4か所を屯倉として献上したと記される。
飛鳥・奈良時代以降は律令制導入に伴い横浜市域にも郡(評)が置かれ、7世紀後半までに市域には武蔵国橘樹郡・久良岐郡・都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。青葉区の長者原遺跡は、8世紀に成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は『万葉集』である。
古代鎌倉郡にあたる栄区の㹨川流域には横穴墓群遺跡が発達し㹨川流域横穴墓群という約20群200基以上にのぼる横穴墓群が点在していた。㹨川上流には上郷深田遺跡という古代関東有数の製鉄遺跡があった。近くの上郷猿田遺跡は製鉄作業に携わる人々のムラだという。
平安時代には各所の開発も進み、坂東八平氏や武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの武士団が勢力を張った。今に残る弘明寺、宝生寺など、平安時代以前の建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援を受けていたものと考えられる。
延長5年(927年)には、都筑郡の杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社がいくつかあり、位置は確定されていない。
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀末(鎌倉時代開始)から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域に当たる小机郷鳥山(港北区小机町・鳥山町)から、多摩川・鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。また、東京湾に面する六浦湊(金沢区六浦)が鎌倉の玄関口として文化・交易・産業の中心地となり、中国大陸(南宋)との貿易(日宋貿易)や内湾の交易によって栄え、武士や商人・職人・宗教者などが多く集まり賑わいを見せ、東海道に接して栄えた神奈川湊(神奈川区神奈川)とともに漁業と海運業の発達へと繋がっていった。
横浜の名の初出は、室町時代中期の嘉吉2年(1442年)の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区の宝生寺)に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。ただしこの横浜は現在の横浜(市政の中心街になっている関内地区)と異なるとされ、現在の横浜市の原型となった武蔵国久良岐郡横浜村は1667年に完成した吉田新田に役場を設置している。
戦国時代に入ると、相模国の伊勢氏が市域を支配下に置いた。伊勢氏改め後北条氏にとって小机城と本牧村は重要な拠点であり、小机城には北条氏尭、氏光ら小机北条氏と、笠原信為ら備中笠原氏、小机衆と呼ばれる家臣団が、本牧には水軍として編成された漁民達が置かれていた。
江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出2つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らず の砂州上に形成された半農半漁の郷村であった。
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだアメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果、嘉永7年/安政元年(1854年)に横浜村で日米和親条約が締結され、安政5年(1858年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。
幕府は、東海道に直結し、当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で外国人居留地、深谷市在の笹井万太郎による波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている。しかし勅許は6年遅れた。文久/元治元年(1864年)には安政五カ国条約の相手国へ横浜鎖港談判使節団を派遣するも失敗。薩英戦争まで起こった。騒然とした世相にもかかわらず、横浜にはジャーディン・マセソン(怡和洋行)、デント商会、そしてオリエンタル・バンクが進出してきた。慶応2年(1866年)には香港上海銀行も支店を出した。明治5年(1872年)にはドイツ銀行までやってきた。 …