札幌市: 歴史
江戸時代の札幌は「サツホロ」または「シヤツホロ」と呼ばれ、西蝦夷地イシカリ場所に属した。当時のサツホロは、サッ・ポロ・ペッ(アイヌ語で乾いた大きな川・乾く広い川の意。現在の豊平川)流域を指したが、当時の流路は現在の豊平橋付近から現在の伏籠川の流路をたどり、篠路川沿いに茨戸で茨戸川(旧石狩川)に注ぎ込むものであった。狭義でのサツホロは茨戸川河口部(石狩市との境、茨戸付近)を指し、サツホロブト(サッポロ川の合流点)とも呼ばれた。1669年(寛文9年)のシャクシャイン蜂起時に津軽藩の牧只右衛門が記した『石狩地形の事』には、「石狩浜口より一里程登り候て、はつはやふより二里程登候てさつほろと申所に狄有。さつほろの枝川に竪穴半里計の沼御座候」という記述があり、サッポロベツにアイヌの住人がおり、サッポロベツの支流に沼があったことがうかがえる。
1752年(宝暦2年)の地図では、石狩川支流にハツサブ川(発寒川)・サツホロ川が書き込まれ、さらにサツホロ川左岸に米セオイ道のアプタ道が描かれており、山稼人夫の糧米輸送路であったことがわかる。その後天明から寛政期にかけて、松前藩によってアイヌ支配のためイシカリ場所が13箇所に分けられ、そのうちハッシャブ場所(現在の茨戸川左岸、発寒川合流地付近、現在の北区内)・シノロ場所(現在の茨戸川左岸、篠路川合流地付近、現在の北区内)・ナイホウ場所(伏篭川上流付近、現在の東区内)・上サッポロ場所(豊平川流域)・下サッポロ場所(豊平川流域)が、現在の札幌市に相当する地域に開かれた。これらの場所と呼ばれる松前藩家臣の知行地は幕末まで存続した。1807年(文化4年)に西蝦夷地が一時幕府領となると、1810年(文化7年)に石狩場所内のアイヌの調査が行われたが、上記のハッシャブ場所を除く4場所に住むアイヌの人数の合計は552名(男性279人、女性273人)であった。
現札幌市内への和人の定住は、1855年(安政2年)ごろに、豊平河畔で渡船の仕事に従事していた志村鐵一と、同河畔で狩猟に従事していた吉田茂八の一家が最初とされる。1857年(安政4年)には札幌越千歳道路が完成し、豊平川に官費で渡船が設けられ、通行屋も置かれた。同年の松浦武四郎『丁巳日誌』には、「今サツホロ蝦夷、文化七庚午のとしの改百九十人有しが、今此処の人別帳漸々五軒。人別二十六人ならでなし」とあり、茨戸付近、サツホロアイヌの多くが別の地域に移住したことが記録されている。また、松浦武四郎『西蝦夷日誌』によると、当時の箱館奉行がツイシカリ(対雁、当時流路が変わったサッポロベツが石狩川と合流する地点)に大府を置くことを提案したのに対し、松浦は札幌・樋平(豊平)の辺りに置くことを献策している。
石狩平野から勇払平野にかけて連なる石狩低地帯は、古くから北海道の日本海側と太平洋側を連絡する交通の要地であり、江戸時代に入ると石狩・勇払間を結ぶ簡易道路も作られた。また、木材や魚介類などの天然資源に富み、地味も肥沃であることから、幕府や松前藩、東北地方の諸藩などによる調査探検も行われていた。石狩平野の西部に位置する札幌が、幕末期から開発の対象となり、さらに明治維新後には北方警備や開拓事業の拠点となったことは、上記の事情と決して無関係ではない。
明治維新後の1869年(明治2年)に石狩国札幌郡に属し、同年開拓判官島義勇の指導の下、札幌本府の建設が始まる。同年旧暦11月、島義勇が函館・銭函経由で札幌入りし、現在の中央区北1条西1丁目に近在の元村の大友亀太郎の役宅を移し、官邸の建築に着手した。当時の札幌中心部は森林に囲まれ、本府の建設には苦心惨憺たるものあった。島は数百人の大工・職人・人足のほか地元アイヌの協力を得て都市建設を始め、元村の木材を伐採し、住宅や倉庫・仮御宮・病院・道路などを建設した。当時石狩や小樽などを管轄し、開拓使と対立関係にあった兵部省の井上弥吉や小出房一郎らは、管轄地内の物資を開拓使に売ることを禁じたため、札幌本府は深刻な食料不足に陥った。このため元村や篠路村などの周辺町村から食料を徴収したり、余市・忍路・厚田などの請負人から援助を受けるなどをして糊口を凌いだ。島自身も掘立小屋で犬を抱いて寒さをしのぐほどであった。
島の思い切った札幌建設は開拓使長官東久世通禧や兵部省との対立を生み、翌1870年(明治3年)2月に島は職を辞して東京に去った。後任の判官には岩村通俊が就任したが、資金不足などの理由から札幌本府の経営は一時中止となった。島の部下であった権監事西村貞陽らはその状況を憂い、東久世に経営の再開を強く訴えたため、1870年12月に経営再開が決まった。中央区南1条東1丁目には「札幌建設の碑」があるほか、島の銅像が札幌市役所ロビーと北海道神宮に建てられている。
明治初期に現在の札幌市域に所在したアイヌのコタン(集落)は4つあり、その内で上サッポロコタンが現在の中央区北2条東1丁目付近、サクシコトニコタンが現在の偕楽園緑地から北海道大学キャンパス付近、フシココタンが現在の東区北9条東9丁目付近、ハッサムコタンが現在の西区琴似4の1付近だった。彼らは上川の族長クーチンコロに属し、毎年7月から10月まで石狩郡役所に出稼ぎしていた。
「札幌市略年表」、「道路建設の歴史」参照
斉明天皇4年(658年):阿部比羅夫の活動した「弊賂弁の島」は札幌低湿地帯とする伝承がある。
元文年間:イシカリ場所に場所請負制導入。
天明 - 寛政年間:松前藩によってアイヌ支配のためイシカリ場所 が13箇所に分けられ、そのうちハッシャブ場所(現在の茨戸川左岸、発寒川合流地付近、現在の北区内)・シノロ場所(現在の茨戸川左岸、篠路川合流地付近、現在の北区内)・ナイホウ場所(伏篭川上流付近、現在の東区内)・上サッポロ場所(豊平川流域)・下サッポロ場所(豊平川流域)が、現在の札幌市に相当する地域に開かれた。
文化3年(1806年):江戸幕府御勘定吟味役・村垣左太夫らの西蝦夷地巡視に随行した最上徳内が、茨戸川から発寒川を遡り、現在の札幌周辺を調査する。
文化4年(1807年):寛政11年(1799年)に行われた東蝦夷地の幕府直轄に続き、西蝦夷地も幕府直轄となる。幕府の松前奉行出役・近藤重蔵が虻田道調査のため、豊平川・定山渓などを探索する。
文化7年(1810年):石狩場所内のアイヌの調査が行われる。シノロ場所・ナイホウ場所・上サッポロ場所・下サッポロ場所に住むアイヌの人数の合計は552名(男性279人、女性273人)であった(ハッシャブ場所の正確な人数は不明)。
安政2年(1855年)ごろ:現在の豊平橋付近に志村鐵一とその家族の計3名が豊平川右岸(現在の豊平区側)に、吉田茂八とその家族の計4名が豊平川左岸(現在の中央区側)に住んだ。札幌市域における和人最初の定住者。
安政4年(1857年):箱館奉行によって札幌越新道(銭函 - 豊平- 千歳 - 勇払)開削。志村鐵一と吉田茂八が、石狩役所・荒井金助によって、豊平川渡船場の渡守に任命される。また、箱館奉行の命により、幕臣山岡精次郎、永田休蔵らが現在の西区発寒付近に移住し、発寒川・チネセブ川沿岸部などの開拓を行う。
安政5年(1858年):松浦武四郎が定山渓で温泉(現在の定山渓温泉)を発見。荒井金助が現在の北区篠路地区に、農民数十戸・50人を入植させる。
慶応2年(1866年):現在の東区北13条東16丁目に、箱館奉行所蝦夷地開拓掛・大友亀太郎の役宅が建てられる(現在の札幌村郷土記念館敷地内)。大友堀(現在の創成川)開削。付近は札幌村となる。美泉定山によって定山渓温泉に湯治場が開かれる。
1869年(明治2年):明治政府が開拓使設置。蝦夷地を北海道と改称。11国86郡が置かれ石狩国札幌郡となる。島義勇により札幌本府の建設開始。本府とは、政庁或いは政庁を核とした中心市街地のことを指す。島の構想は、現在の大通公園を中心に、北側を官庁街・南側を商業地とする、といったものであった。札幌神社(現在の北海道神宮)創建。 …