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神戸市: 歴史

神戸市: 歴史

=== 古代 ===
現在の神戸市域は、律令制では摂津国と播磨国に属していた。現在の垂水区、西区、北区(北神)の淡河町、須磨区の神戸総合運動公園・神戸流通業務団地の区域が播磨国で、発足時の市域を含むその他の区域が摂津国であった。
和田岬から北へ湊川(旧河道)のあたりにかけて「兵庫津」(ひょうごのつ)と呼ばれる港が広がり、京・大坂の外港・経由地として古くから栄えていた。百済、高麗との交易の時代にすでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。

兵庫津には戦国時代の短い期間、兵庫城が存在していたが、安土桃山時代に豊臣氏の直轄地となり、兵庫陣屋と呼ばれるようになった。大坂の陣後に尼崎藩が立藩されると、西摂の政治の拠点は尼崎に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。1769年の上知によって、同じく尼崎藩領だった西宮とともに兵庫津は幕府直轄領となり、兵庫陣屋には大坂町奉行の兵庫勤番所が置かれた。港は北前船や尾州廻船の中継地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。北西部には西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。
兵庫津はまず市街地の地子方(じしかた)と市街地以外の地方(じかた)に分かれ、地子方はさらに宿場町の岡方と港町の北浜・南浜に分かれていた。北浜と南浜の境界はかつての経が島に由来する築島付近で、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。本陣は岡方に存在したが、諸藩の大名との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「浜本陣」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。

江戸幕府が欧米と締結した日米修好通商条約などの条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には宇治川を挟んで3km東に位置する神戸村が開港場となり、1868年1月1日に神戸港として開港。神戸村と二ツ茶屋村(ふたつちゃやむら)の沿岸部に港湾設備が整備されたが、神戸村の南東端、生田川(旧河道)河口西岸の外国人居留地の造成工事は遅れ、2月に神戸事件が発生。これにより、3月には生田川(旧河道) - 宇治川間の山麓から海岸までが外国人雑居地となり、外国人居留地の造成工事は8月に完了、9月から競売が開始された。12月には神戸村が兵庫津寄りに位置する二ツ茶屋村・走水村(はしうどむら)と合併して神戸町となり、兵庫津と接するようになった。ただし両市街中心部は離れており、宇治川 - 湊川(旧河道)間の西国街道より山側は、坂本村の南部が「仲町部」と称して開発され、兵庫県庁舎(2代目庁舎)、福原遊廓(新福原)、湊川神社などが築かれた。1874年には、日本で2番目の鉄道路線である東海道本線(JR神戸線)大阪駅 - 神戸駅間が開通し、西国街道より浜側の兵庫津相生町および兵庫津東川崎町に神戸駅が開業。同時に神戸町にも現在の元町駅の位置に三ノ宮駅が開業した。
兵庫津の湊川以西においても、1874年に仲町部の多聞通を柳原惣門まで西伸させた新西国街道と兵庫津の旧市街との間が兵庫新市街として整備され、神戸町と兵庫津の市街が連続するようになった。一方、1875年に新川運河を開削するも不開港の兵庫津(兵庫港)は神戸港に対して劣勢となり、1879年の郡区町村編制法施行により市街としての兵庫津は神戸区に飲み込まれ、1892年の勅令(神戸港の港域拡張)により港湾としての兵庫津(兵庫港)も神戸港に飲み込まる形で一体化した。1901年の湊川の付け替えにより生じた旧河川敷には1905年に新開地が形成され、「東の浅草、西の新開地」と称されるほど繁栄した。日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールと並ぶアジアの主要な貿易港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。1922年には六大都市に指定された。
新開地や神戸駅周辺が繁栄する一方で、生田川は神戸駅開業よりも早い1871年に現河道へ付け替え済みで、1889年の市制施行の際には旧生田川以東の葺合村が市域に加わっており、1899年の居留地返還を機に都市機能を東へ分散させる施策も行われた。旧居留地はオフィス街へと変容し、旧生田川河口と旧居留地の沖合には1907年から新港突堤の埋立造成が開始された。1905年の阪神本線開業、1912年の神戸市電布引線開業、1931年の東海道本線三ノ宮駅移転、1933年の神戸市電税関線開業、1936年の阪急神戸本線延伸など、旧居留地の北隣に位置する三宮が鉄道結節点となり、旧生田川を南北基軸とする都市機能が整えられた。
1918年(大正7年)8月、日本各地で活発化した米騒動(1918年米騒動)は神戸市内でも活発化する動きを見せた。警察が警戒態勢を敷いていたものの、同年8月12日には、約1万人の暴徒が当時日本を代表する総合商社の一つであった鈴木商店総本店に殺到。破壊、焼き打ちしたほか、神戸新聞社の社屋、印刷所なども放火された。駆けつけた消防署員は群衆の妨害に会い、消火活動はままならない状況となった。また、米穀店を含む一般商店も次々と襲撃を受けて営業ができなくなった。兵庫県知事の清野長太郎は、米価格の高騰に苦しむ庶民を慮り軍隊の派遣を謝絶していたが、放火が続くにあたり軍の導入を決断。姫路市から憲兵隊が駆けつけて暴徒の鎮圧の一部を担った。一連の騒乱の検挙者は150人に及んだ。

太平洋戦争末期、他の諸都市同様にアメリカ軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „神戸市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 663highland, CC BY 2.5 – Wikimedia Commons