広島市: 歴史
=== 古代 ===
古代には太田川デルタは未だ形成されておらず、可部付近まで海が入り込んでいたと考えられている。
古墳時代
太田川下流域の長束から可部にかけて古墳群が存在することから、下流域にはある程度の規模の集落が形成されていたと思われる。
飛鳥時代
7-8世紀の律令の時代には古安芸郡(現在の広島県の西半分)には11ヶ郷があり可部近辺が漢弁郷と呼ばれ、太田川、根之谷川、三篠川の合流地点であり出雲往還および石見往還の分岐点として栄えていた。
平安時代
平安時代には可部、中野、四日市、水落、大毛寺、今井田柳瀬、勝木などの地域が可部荘で、南原川と根之谷川の間が三入荘、三篠川の中流域に三田郷、戸坂あたりが田門荘があり、祇園近辺に佐東倉敷が置かれていた。太田川下流部の流路は江戸時代初期に福島正則が流路を東に移すまでは古河(佐東川)が本流であり、下流部では 左岸(東側)は現在よりかなり広かった。当時はまだ太田川デルタが形成されておらず、海田に開田荘があり、国府は現在の安芸郡府中町または東広島市西条に置かれたと推定される。
この時期には平安海進(8世紀から12世紀)があり、可部付近の河川水位と海水位の差は現在より小さかった。
平安時代
平安時代後半(1100年ごろ)には、湾頭は長束付近 で牛田村、長束、三篠が河口を囲んでおり、山陽道は戸坂村で太田川を渡河していた。
南北朝時代
1371年(応安4年)に当地を通った今川了俊は紀行文『道ゆきぶり』の中で「かひた」から「佐西の浦」(現廿日市市あたり)にかけては「しほひ (潮干)の浜」であったと記述している。
室町時代
室町時代中期(1400年ごろ)にデルタが形成され始め、戦国時代(1500年ごろ)には現在の平和大通りあたり(長束から約4km)までに広がっ た。この急速な土砂堆積は当時太田川中流域で盛んであったたたら製鉄の為の砂鉄採取で行なわれた鉄穴(かんな) 流しの影響が考えられている。室町時代に武田山 に佐東銀山城を築いた安芸武田氏の基盤は未開発の太田川デルタ以北の長束より上流であり、下流域の当時の中洲(川内・中筋・東野・東原一帯)に本拠を持つ土豪である川内衆(かわのうちしゅう)と府中を本拠とした安芸白井氏の水軍を擁していた。これら両水軍は武田氏滅亡後は毛利氏に仕えた。川内衆は毛利氏の指示によりデルタの干拓に携わった。
安土桃山時代~江戸時代初期
安土桃山時代の開府以降、山陽道沿線の行政の中心地として、広島市は発展した。
毛利氏による 広島城築城開始後は福島氏や淺野氏によりデルタの開発は継続された。広島デルタの開発は1589年に毛利輝元が開始し、1601年に福島正則が入城したが、城内の建物やその周辺の補修や普請は継続し福島氏改易の原因となる1617年の普請まで城下の整備が継続された。
1619年に 浅野氏の入城後はほぼ洪水や火災などの補修に留まっているので、少なくとも1619年には城内の工事は完了していたと思われる。
毛利氏により10年、福島氏により約20年が城およびデルタ開発に費やされ、干拓事業などにより広島市道霞庚午線(長束から約6km)のあたりまでデルタが拡大した。
デルタ形成に寄与した「鉄穴流し」ではあるが、治水の為に1628年(寛永5年)に禁止された。
江戸時代には、それまで猿猴川と京橋川の河口の島であった比治山や黄金山一帯が埋め立てられた。
(特徴:地方王国たる広島藩の首府)
毛利元就が中国地方一円の戦国大名となった時、小盆地である吉田(郡山城)は手狭であり、交通の便も悪かった。そこで、山陽道(西国街道)が通り、太田川や瀬戸内海の水運を利用できる、太田川下流デルタの寒村・五箇庄に注目した。元就の死後、毛利輝元によってその着想を現実化し広島の開発が始まった。
1589年(天正17年):毛利輝元が、五箇庄の箱島(現在の白島)を中心とした干拓と、広島城の築城とを命じる。
1591年(天正19年):毛利輝元が、未完成ながらも広島城に入府し、地名を「広島」と命名する。
1599年(慶長4年):広島城の完成。
1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いで敗北し、長門国・萩に移封された毛利氏の替わりに福島正則が城主となる。
山陽道が、福島正則によって城下町を通るように南寄りに付け替えられる。また、同時期に出雲街道や石見街道も整備される。干拓により新開地も増え続け、江波や草津が港として整備される。
1619年(元和5年):広島城石垣の無届け改修を理由として福島正則が改易となり、浅野長晟が城主となる。以降、浅野氏の広島藩が明治維新まで続く。
江戸時代を通して広島の人口は拡大し続け、幕末には武家・町人併せて7万人あまりの規模に達していたと言われる。これは日本三都(江戸・大坂・京)および名古屋・金沢に次ぐ水準で、この当時から日本屈指の都市となっていた。
明治時代
(特徴:中央集権国家での地方統治の拠点・軍事都市)
明治に入り軍港の整備や、産業誘致の為の埋め立てでデルタはさらに拡大していった。現在の空港通り最南端は長束より約9kmの距離である。 …