千葉市: 歴史
=== 前史(古代) ===
千葉市若葉区桜木には世界でも最大規模の貝塚および環状集落である特別史跡「加曽利貝塚」がある。縄文時代の痕跡が色濃く残っており、この場所では約7000年前の竪穴建物跡が発見されているが、当時の貝塚は残されていない。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期である。初期には小規模な貝塚と建物群があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて形成されていることからも、多くの人々が暮らしていたとされている。
『日本後紀』大同元年正月癸巳(1月28日)(806年2月20日)条に、「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)大私部直(おおきさいべのあたい、直はカバネ)善人」という人物が登場しており、大化の改新以前より千葉市に国造が置かれていた可能性が高く、律令制成立後も下総国千葉郡と呼ばれる郡が成立した。さらに『倭名類聚鈔』には千葉郡にあった7つの郷の一つに「千葉郷」と呼ばれる郷があったことが記されており、同郷は現在の稲毛区穴川・黒砂付近を指していたと考えられている。
平安時代に平常重が千葉郡千葉郷・池田郷一帯に千葉荘を開き、1126年(大治元年)、猪鼻台(現在の亥鼻城址・亥鼻公園周辺)に居館(亥鼻城)を築いて、千葉介を名乗り 千葉氏の実質的な初代当主となる(千葉常重)。都川周辺は広義の城下町 として繁栄した。常重の子、千葉常胤は鎌倉幕府を開いた源頼朝の重鎮となる。以後、子孫が室町時代まで下総国守護職として周辺を支配した。
下総国から西へ東京湾を渡った相模国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)の称名寺には、鎌倉時代の千葉寺や千葉市の大日寺で書写された仏教関係の文書が多数残されている。東京湾対岸の称名寺に多数残されているのは、僧侶が東京湾の水運を使って下総国と相模国の間を往来していたためとされ、都川河口(現在の千葉市中央区寒川町付近)は下総国の地方船着場(湊)として利用されていた。しかし、享徳の乱に乗じた原胤房と馬加康胤によって千葉胤宣が討たれ、千葉氏宗家が滅びた後は、千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町となった。
江戸時代には、現在の千葉市域の大半が佐倉藩の所領となった他、市域内に生実藩・曽我野藩の2小藩が置かれた。その他に幕府領(天領および旗本・与力知行所)となっている地域もあった。
後に江戸から佐倉城を結ぶ佐倉街道が整備されると、船橋宿から分岐して寒川湊(現在の千葉港)を結ぶ千葉佐倉道(千葉街道)や東金御成街道が整備され、将軍が休息・宿泊する為に千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)も造られた。千葉市内には御殿が2カ所存在し、小規模な宿場町となる。
江戸時代末期ごろから海運業が盛んとなり、曽我野浦(曽我野県、現在の千葉市中央区蘇我)や登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)は、物資を江戸へと船で運ぶ拠点となっていた。曽我野浦では、東金や九十九里沿岸から馬の背で輸送された〆粕・干鰯・年貢米・鮮魚などを荷受けし、五大力船で江戸に廻送した。登戸浦は、江戸築地に荷揚場を持ち、都川の水運で運ばれた年貢米や海産物を房総半島から江戸に運び、佐倉藩の外港でもあった。江戸時代後期の浮世絵師である葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「登戶浦」に当時の活気が描かれている。
戊辰戦争後の1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県では、現千葉市は印旛県の領内に入れられた。しかし、明治初期の1873年(明治6年)には印旛県と木更津県が合併されて千葉県が誕生し、旧両県の境で千葉氏の本拠地でもあった現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置され、これ以後は千葉県の県庁所在地として発展することとなる。1894年(明治27年)には総武鉄道の開通により、政治と交通の中心地として整備が進んだ。
市制施行により千葉市が誕生したのは、1921年(大正10年)1月1日のことである。この時点での市域は、現在の中央区の北半分から稲毛区の南東部にわたり、これは1889年(明治22年)に設定された千葉町の町域をそのまま引き継いだものであった。その後、徐々に周辺の町村を編入するとともに、海面の埋め立てを進め、1922年(大正11年)5月27日、内務省告示第131号により港湾指定を受け、後の千葉港となる。1940年(昭和15年)には、東京湾臨海工業地帯計画が内務省土木会議で決定され、その一環として、千葉市今井町地先海面300ヘクタールの埋め立てを計画して200ヘクタールの埋立てを行い、市域は拡大していく。
戦前(第二次世界大戦勃発前)には、現在の川崎町の埋立地に日立航空機製作所と日立製作所などの軍施設が集中する軍都「千葉」として軍都「習志野」とともに発展した。千葉市内には1908年ごろの陸軍歩兵学校、気球聯隊など陸軍関係の学校や施設が多く残り、例として千葉公園内には戦跡として練習用トンネル、架橋演習用橋脚、荒木山などが残されている。1945年(昭和20年)6月10日と7月7日に連合国軍による大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ市域の7割が壊滅する甚大な被害を受け、その後、第二次世界大戦は終結となる。
戦後、宮内三朗市長(名誉市民第1号)の元で大規模な埋め立てと市町村合併が行われた。現在の緑区のうち、旧土気町であった部分はかつては上総国山辺郡(今の山武郡)に属していた地域である。1948年(昭和23年)7月16日、千葉港の港則法に基づく港域が決定され、日本における戦災復興都市計画の一環として川崎製鉄株式会社(現在のJFEスチール株式会社)を今井町地先埋立地(現在の蘇我副都心)に誘致し、京葉工業地帯の中心都市として再建された。周辺は企業城下町の雰囲気を色濃く残し、西口がある川崎町にはJFEスチール東日本製鉄所、東口にはJFE体育館(旧:川鉄体育館)・千葉メディカルセンター(旧:川鉄病院)・JFEスチールの社宅や独身寮などが建設され、工業都市として発展した。
1954年(昭和29年)2月27日、千葉港が法務省令第14号により出入国管理令上の出入国港に指定、同年3月20日港則法に基づく特定港に指定され、1953年(昭和28年)7月1日、政令第150号により国際貿易港として関税法上の開港に指定。これにより後の1982年(昭和57年)10月に、千葉港開港記念日を「7月1日」として制定された。
「日本の政治、経済、文化等の中心としてふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図る」ことを目的として1956年(昭和31年)に「首都圏整備法」制定され、千葉市が近郊整備地帯に指定された。これにより、1960年(昭和35年)には、大宮団地の整備事業が開始され、以後土地区画整理事業が相次いだ。特に、1967年(昭和42年)には、海浜ニュータウン計画を発表、稲毛、検見川、幕張に計画人口約24万人の大規模なニュータウン建設が計画された。その後、独立都市の計画として「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表し、業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能を持つ「新都心」を建設することを決定した。
『千葉県新総合五ケ年計画』では、千葉県内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。1981年(昭和56年)より順次、大学、高校などの文化・教育施設が立地し、西千葉駅周辺(稲毛区)、本千葉駅周辺(中央区)、おゆみ野(緑区)、幕張新都心文教地区(美浜区)に文教都市を形成した。また、首都高速湾岸線や東関東自動車道、JR京葉線などのインフラ整備が急ピッチで進む。 …