堺市: 歴史
=== 古代 ===
現在の堺市域には旧石器時代から人々が生活していたことが確認されている。南花田遺跡など市内各地の遺跡からは旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されている。また、浜寺の四ツ池遺跡は、池上曽根遺跡(和泉市、泉大津市)と並ぶ弥生時代の集落遺跡で、市内では最大規模を誇る。1989年には国の史跡に指定された。このほか、石津川流域の下田町や鶴田町でも、竪穴建物跡を中心とする集落跡や土器・金属器などが出土している。
古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。その生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺から信太山丘陵にかけて須恵器の窯跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在も残っている。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする100基を超える古墳が造られた。また、『日本書紀』によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に七道浜に立ち寄り、地元豪族の田裳見宿禰に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るよう命じたとされ、住吉大社の起源とされている。
飛鳥時代になると、難波津や難波宮を起点として、聖徳太子ゆかりの仏教寺院である四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道や、後に竹内街道へ発展した難波と飛鳥を東西に結ぶ丹比道、長尾街道の前身となる大津道が整備される。奈良時代から室町時代にかけては、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡、東区日置荘周辺に河内鋳物師と呼ばれる人々が多く居住し、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。また、大野寺は行基によって創建されたと伝わる。
平安時代には熊野詣が盛んとなり、熊野街道(小栗街道)沿いには境王子と大鳥居王子が設置された。また、和泉国北部の交通・物流の要衝として港湾機能も発達し、中世の自治都市・堺の成立につながる基盤が形成された。
==== 鎌倉時代(堺北荘と堺南荘) ====
鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に、堺北荘と堺南荘が成立した。また、瀬戸内海航路の発展とともに港湾都市としての機能を強め、中世の自治都市・堺の基礎が築かれた。
南北朝時代には、南朝方と関係の深かった住吉大社宮司の津守氏との結び付きから、堺は南朝の外港として機能し、廻船が発着する港湾都市へと発展した。
応仁・文明の乱以後、それまで貿易の拠点であった兵庫津(現在の神戸港西側)に代わり、堺は対明貿易の中継地としてさらに発展した。地下請などの自治的な特権を獲得し、足利将軍家や細川氏が主導した勘合貿易の拠点となった。また、琉球貿易や南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まり、国際貿易都市として繁栄した。キリスト教布教のため来日したイエズス会の宣教師、ガスパル・ヴィレラは『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と記し、その様子は当時の世界地図にも記載されるほどヨーロッパ世界にも広く知られることとなった。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもマラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告。その著書『日本史』のなかで、堺を「東洋のベニス」と記している。フロイスは永禄の変の後、しばらく堺に滞在している。
==== 安土桃山時代(自治都市と繁栄) ====
安土桃山時代には国際貿易港として繁栄し、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成した。会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世を代表する自治都市となった。堺の経済力と港湾機能を掌握するため、織田信長や豊臣秀吉らは堺を支配下に置こうとし、堺は同じ自治都市であった平野郷と同盟的関係を結んだが、最終的には織豊政権に組み込まれた。その後、自治機能は解体されて直轄地となった。
自治都市としての性格は失われたものの、堺は大阪湾岸に展開した港湾都市群の一つとして、古代の住吉津や難波津、中世の渡辺津に続く重要な港湾としての役割を担った。やがて渡辺津近くの石山本願寺跡地に大坂城が築かれ、その城下町 (船場周辺) が整備されると、平野商人や伏見(現在の京都市伏見区)商人が移住し、堺商人の多くも大坂へ移った。これに伴い商業の中心は次第に大坂へ移行したが、堺商人は海運を背景に全国の港湾都市や城下町へ進出し、博多や大分、鹿児島など既存の港湾都市との交易を担うとともに、大坂や名古屋など各地の都市形成や商業の発展にも大きな役割を果たした。
産業面では、戦国時代から鉄砲(火縄銃)の生産が盛んに行われた。文化面では、千利休、今井宗久、津田宗及に代表される茶道文化が発展し、平野郷や今井町(現在の奈良県橿原市)など他の自治都市とも交流が盛んであった。
中世から江戸時代初期にかけての堺は豊かな経済力を有し、その商業・産業・文化は後世の日本社会に大きな影響を与えた。
江戸時代初期には堺奉行が置かれ、糸割符制度などのもとで商業活動が維持された。鎖国の成立により海外貿易が縮小すると、大坂の商業都市としての地位が確立する一方で、堺の経済的地位は相対的に低下した。
1697年に堺奉行は廃止され、その職務は大坂町奉行が兼任するようになった。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。また、この開削により河口付近に多量の土砂が堆積したため、堺港に大型船が停泊できなくなり、港湾機能も縮小した。
江戸時代後期になると、醸造業などの発展により堺は再び活気を取り戻した。幕末、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近いことから、その代替港として堺も候補の一つに挙げられた。しかし、港湾条件や地理的利便性などが考慮され、最終的には兵庫(現在の神戸市兵庫区)が開港地に選ばれた。堺周辺に古墳が多く、外国人の立ち入りを懸念する意見があったともいわれる。この結果、堺は中世以来の国際貿易港としての地位を回復するには至らず、以後は神戸港が国際貿易の中心として発展していくことになった。
==== 明治から昭和初期(近代都市化と工業都市への発展) ====
明治時代以降は、紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げ、阪神工業地帯の一角を占める経済的基盤を形成した。また、1888年の堺区の設置、1889年の市制施行によって近代都市としての行政基盤が整備された。鉄道の開通や港湾整備によって大阪市との結びつきも強まり、周辺地域の人口増加と市街地の拡大が進んだ。1920年代以降は金属・機械工業も発展し、南大阪を代表する工業都市としての性格を確立した。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の接近により堺市は甚大な暴風雨被害を受けた。九間町の錦小学校では旧木造校舎が倒壊し、約150人の児童や教職員が下敷きとなって多数の死傷者が発生した。殿馬場小学校でも校舎が倒壊したが、死傷者は出なかった。さらに、南海本線の堺駅‐七道駅間に停車していた電車1両が強風によって転覆するなど、市内各地で大きな被害が生じた。この災害は、学校建築の耐震・耐風対策や防災意識の向上を促す契機となった。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)当時、日本には180の都市があり、そのうち58都市がアメリカ軍の空襲を受けた。アメリカ軍は人口規模の大きい都市を優先して空襲対象に選定し、人口約18万人の堺市は全国24位の対象都市とされた。広義の「大阪大空襲」において、着弾目標地点が設定されたのは大阪市(2位)と堺市、兵庫県尼崎市(25位)の3都市のみであった。アメリカ軍は作戦任務報告書で、堺市を空襲対象に選んだ理由として「大阪市に近接し、その工業圏と密接に結びついていること、また軍需工場労働者の住宅地としての役割を担っていること」を挙げている。しかし、実際の被害は軍需工場よりも住宅地に集中し、多数の民間人が犠牲となったことから、非戦闘員を巻き込む無差別爆撃であったとの指摘もなされている。 …