Heimatgeschichte · Niigata ·

新潟市: 歴史

新潟市: 歴史

=== 原始から古代 ===
現在の新潟市域における人々の営みの始まりは、約2万年前の旧石器時代に丘陵と山麓を中心に始まった。古墳時代前期にはヤマト王権の勢力下にあり、647年(大化3年)には北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵が設置された。
奈良時代が始まる8世紀前半、国―郡―郷を単位とする地方制度が整った。信濃川の河口には蒲原津があり、蒲原津は越後国の国津として人や物資の集まる交通の要所となった。新津丘陵では須恵器や鉄の生産が始まり、信濃川左岸の低地ではサケの漁獲・加工が行われた。また、海岸砂丘地帯では塩が作られた。

戦国時代の1520年(永正17年)に「新潟」という地名が記録に出てくるようになる。新潟津は信濃川河口左岸にあり、蒲原津・沼垂湊と合せて、当時「三か津」と呼ばれた。新潟津が現れてから蒲原津は衰え、新潟津が信濃川・阿賀野川河口の中心的な湊となった。
1580年(天正8年)。阿賀北(阿賀野川以北)の武将、新発田重家が新潟津を占拠し、上杉景勝(上杉謙信の後継者)との抗争が始まったが、1586年(天正14年)、新発田方に味方していた新潟・沼垂の町民たちが上杉方へ寝返り、上杉方は新潟・沼垂を制圧することができた。新潟津を失った新発田氏は翌1587年(天正15年)に滅ぼされ、越後国は上杉景勝によって統一された。

1598年(慶長3年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命令で会津(福島県)への国替えとなり、新潟湊は長岡藩領、沼垂湊は新発田藩領となった。長岡藩は新潟に新潟町代官を設置し新潟町となる。その後、信濃川・阿賀野川河口部の地形が変化し、新潟湊は1655年(明暦元年)に信濃川左岸、現在の古町の地に移転した後に1676年(延宝4年)に長岡藩によって新潟町奉行が設置された。同じ時期に越後平野の生産力が増加し。北前船の西回り海運が安定する時期までに移転を終えた新潟湊は、1697年(元禄10年)には、日本海側屈指の湊に発展していた。
1768年(明和5年)、長岡藩による御用金を原因とする一揆である新潟明和騒動が発生。江戸時代後期、新潟湊では唐物(中国製品)と俵物(北海道製品)の密輸が行われていたことから幕府は密輸を摘発。1843年(天保14年)に新潟町を幕府領にした。(新潟上知)
1858年(安政5年)に締結された日米修好通商条約で、幕末に開港された開港5港の一つとして新潟湊は日本海側における開港場となった。
1868年(慶応4年)、新政府軍と旧幕府側との間に戊辰戦争が勃発。同年7月の北越戦争で官軍と寝返った新発田藩兵が米沢藩兵を木戸方面から襲撃、沼垂での市街戦はよろしくないという方針から米沢藩が新潟に撤退してから市街戦になる。新潟町は戦場になり、戦災で市街地を焼失した状態で明治維新を迎えた。

新潟港は、1869年1月(明治元年11月)に開港。1870年(明治3年)に県庁所在地となり、白山公園の開設や第四銀行の設立、新潟県会の開設など近代化が進められた。また、1870年(明治3年)に長岡藩の支藩の三根山藩は、戊辰戦争で困窮していた長岡藩に救援米百俵を贈った。
新潟町は1879年(明治12年)に寄居村を編入して新潟区となり、1889年(明治22年)には新潟区と関屋村が合併して市制施行し、新潟市となる。当時の市域は「新潟島」に相当する。明治30年代に新津油田の機械掘削が本格化。大正期に新津町は「石油の町」として栄えて国内最大の油田となり、新潟市・沼垂町では石油産業が発達した。
1908年(明治41年)3月8日、市内で大火。1198戸焼失。住家のほか銀行や会社、小学校も焼失した。この年、9月4日にも再び大火が発生し、2,000戸以上が焼失。2度の大火により1880年の大火で焼失して再建された「お役所」や「郵便役所」、1886年に開通した「初代萬代橋」も焼失した。
1910年(明治43年)10月、上水道が竣工。それまでは水売りが船で信濃川の水を汲み、得意先へ販売していた。水は黄濁しており衛生的なものではなかった。
1931年(昭和6年)に上越線が全通。翌1932年(昭和7年)には、中国東北部に満洲国が建国される。新潟港は東京から鉄道で最も近い日本海側の港となり、政府は政府命令航路である新潟発着の日満航路を開設。新潟港は対岸進出の拠点港になった。
1941年12月の真珠湾攻撃によって開戦した太平洋戦争の戦局が悪化。B-29による大規模空襲は受けなかったが、1945年(昭和20年)8月11日、原子爆弾が投下されるおそれが高いとして市民に緊急疎開が布告され、市街地は無人に近い状態で終戦を迎えた。実際に新潟は候補地のひとつであったが「新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当である」として外されていた。

太平洋戦争終結後の1947年(昭和22年)10月、昭和天皇が新潟市内を行幸(昭和天皇の戦後巡幸)。市営総合グラウンドで奉迎が行われたほか、新潟医科大学、鮮魚集荷所などへの視察が行われた。
1955年(昭和30年)には、新潟大火が発生。1964年(昭和39年)6月、マグニチュード7.5の新潟地震が発生した。また、天然ガス採取によって新潟島をはじめとする中心部の地盤が沈下し、阿賀野川流域では有機水銀による中毒に奇病(四大公害病の新潟水俣病)が発生した。1985年(昭和60年)までに690人が患者と認定された。
高度経済成長期は自然災害からの復興、公害対策などの環境行政問題に追われていたが、1963年(昭和38年)に国土開発の一つとして、新潟東港の建設工事が着工した。1969年(昭和44年)に新潟東港が開港して、日本海側の貿易中枢港となった。
1973年(昭和48年)に新潟空港にハバロフスク線が開設し、北東アジアを中心に国際線が増加。1982年(昭和57年)に上越新幹線が開通。また、1997年(平成9年)までに関越自動車道・北陸自動車道・磐越自動車道が全線開通し、高速交通網の日本海側の結節点となった。

新潟市は1889年の市制施行以後、1914年の信濃川右岸の沼垂町との合併を皮切りに周辺地域と編入合併していったが、高度経済成長期以後の20世紀の間は合併がなかった。21世紀に入ってすぐ黒埼町を編入。その後周辺12市町村を編入し、次いで巻町を編入した。そして2007年4月1日に政令指定都市に移行し8つの行政区が設置された。

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Quelle: Text: Wikipedia – „新潟市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Fumihiko Ueno, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons