熊本市: 歴史
=== 古代 ===
旧石器時代〜古墳時代
豊かな土壌や有明海の海の幸にはぐくまれた熊本市地区は古来からの居住形跡があり、旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡(貝塚、古墳なども含む)が市内各所で多数確認されている。
律令制下では、概ね肥後国の飽田郡・託麻郡の区域に当たる。
8世紀、水前寺成趣園そばの砂取に肥後国の国府(託麻国府)が置かれ、その近くに国分寺・国分尼寺も設置されたとされる。
その後国府は城南の益城国府を経て、平安時代中期までに二本木(飽田国府)に移転しているが、すべて現在の熊本市域内での移転であることから、少なくとも奈良・平安期の時点で熊本市地区が肥後国の中心として機能していたことがわかる。
また、神話時代からの歴史とされている健軍神社をはじめ、8世紀には城南に熊本県内で最古の寺院とされる「陳内廃寺」や味噌の神様として名高い「味噌天神」が、9世紀には池上町に山岳寺院として「池辺寺」が、10世紀には現在の藤崎台県営野球場の位置に藤崎八旛宮がそれぞれ設置され、同じころには北岡神社も創建されている。
古代官道(駅路)も熊本市域を縦断しており、大宰府から南下してきた西海道の延長として立田山の西から蚕養駅(子飼)を通って託麻の国府へ、さらに城南方面へ進んでいた。
律令政治の崩壊とともに一時肥後の中心地としての機能は失うが、二本木はその後も大きな集落として継続し、古国府と呼ばれることになる。その後、現在の熊本市北部には寄進型荘園として有名な鹿子木荘が拓かれる。
鎌倉時代
鎌倉時代に河尻実明が河尻城を築いたことから発展した、現在の川尻地区は港町として栄え、早くから海外交易も行われていた。中国、明の時代の地理書にも「開懐世利」として記述されている。また、城南町では隈庄城が築かれ、益城地方の中心としての役割を担った。
南北朝時代
南北朝の騒乱の一端として1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)、託麻原の戦いが市内東部で繰り広げられ、京塚など合戦の故事が由来の地名も残っている。
室町時代
その後、応仁年間(1467年 - 1469年)に出田氏が千葉城(現在のNHK熊本放送局所在地)を居城とし1496年(明応5年)、豊後守護大友氏に属する鹿子木氏が茶臼山西南麓に隈本城を築城した。
やがて鹿子木氏が菊池氏についたため、1550年(天文19年)、大友氏配下の城親冬(じょう ちかふゆ)が入った。
加藤清正の入国
戦国時代の肥後国は数十の国衆が割拠していたが、安土桃山時代に入り豊臣秀吉の九州平定により、1587年(天正15年)に佐々成政が肥後49万石に封ぜられ、隈本城へ入る。
しかし、失政により肥後の国衆一揆が起きると、翌年改易され、代わって加藤清正が肥後北半24万石に封ぜられ、隈本城を居城とし統治を開始。
治山、治水や干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し生産力を向上させた。
江戸時代
清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から熊本へと改名した。これ以降、熊本は近世城下町として発展していくことになる。加藤氏は清正の子、忠広の代で断絶し、1632年(寛永9年)以降は小倉藩から移封され熊本藩主となった、細川氏の城下町として発展していくことになる。
近世城下町としての整備は、清正が肥後に入国した天正時代に開始された。まず水害対策と内堀としての活用のため坪井川をつけかえ、古国府の商家も一部移す形で、城の南側(現在の市電呉服町電停一帯)に町人・職人町が作られた。その後城の西側にも町人・職人町が拡大するが、従来からの町人・職人町が「古町」と呼ばれたのに対し、城の西側に開かれた新しい町人町は「新町」と呼ばれることになる。熊本城下町の特徴として碁盤の目状に区画された町の中に寺院が1つずつ設置されており、現在でもこの町のつくりが引き継がれている。有事の際の防衛上の観点からも見逃せない形態となっている。なお、古町界隈は明治以降、昭和戦前期まで熊本市の繁華街の一つとして賑わいを見せていた。
一方、武家屋敷は、城の東側の山崎から高田原(現在の熊本市の繁華街一帯)・坪井にかけての一帯や、城の北の台地上にあたる京町に造成された(京町は、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の家臣や柳川藩の家臣を清正が引き取って住まわせた町である)。このうち、上級武士は城内(二の丸)や内坪井・山崎に居を構え、下級武士は手取・千反畑・高田原エリアに住んだとされる。
また、1601年(慶長6年)に初代の長六橋(橋名は架橋された1601年 = 慶長6年より)がかかり、薩摩街道や日向往還、南阿蘇へ向かう南郷往還の分岐点として迎町が賑わいを見せ、幕末には安政橋(当時の安巳橋)の対岸に新しい武家屋敷町 = 新屋敷が造成される。これらの区域が近代における熊本区 - 熊本市としてのおおまかな輪郭となる。
郊外では薩摩街道の宿場町、緑川水系の物流集積地(港町)として前代から引き続いて、川尻が栄えた。藩の奉行所や税関、軍港(御船手)がおかれたほか、薩摩藩の参勤交代路として本陣もおかれた。稲荷神社の所在地として発展した高橋は、坪井川の付け替え後に熊本の外港としても繁栄した。川尻と高橋は熊本(城下町)、高瀬、八代とともに肥後の五ケ町の一つに数えられることになる。
また、北へ向かう豊前街道と三池街道の分岐点に元禄時代、「味取新町」という宿場町が造られたが、ここが後に植木の中心商店街となる。参勤交代道として整備された豊後街道には里数木として黒髪に一里木が、龍田に二里木が植えられ、現在もバス停名として名残をとどめる(菊陽町にある三里木は駅名にもなった)。二里木のすぐ東側には17世紀半ば、細川藩に招かれた宮本武蔵ゆかりの史跡である武蔵塚がある。東へ向かう木山往還沿いには17世紀後半、桃山式回遊庭園の水前寺成趣園(水前寺公園)が造られた。
明治時代 - 第二次大戦前
幕末から明治にかけて、開明思想家として知られる横井小楠の活躍や熊本洋学校の設置、熊本の自由民権主義を牽引した植木学校の開校、熊本バンド結成など熊本に近代化の波が押し寄せる一方で、旧体制側である士族の反乱も勃発する。
1876年(明治9年)には神風連の変がおこり、そして1877年(明治10年)の西南戦争により植木の田原坂の戦いでは激しい戦闘が繰り広げられた。
さらに主戦場となった熊本の町は熊本城の天守閣を含め灰燼に帰した。また、1889年(明治22年)には熊本大地震にも見舞われた。 …