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相模原市: 歴史

相模原市: 歴史

相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、明治3年(1870年)に津久井郡と改称された。

※この項では2006 - 2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。

==== 先史 ====
相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡や川尻石器時代遺跡、寸沢嵐石器時代遺跡が分布する。

文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田(しほた)郷が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。

==== 鎌倉時代 ====
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に、武蔵国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など、旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。
また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。
鎌倉時代後期には、当麻(たいま)に時衆教団の道場である無量光寺が開かれた。

室町時代には上杉氏の支配下にあった。

戦国時代には北条氏の支配下にあった。

1569年(永禄12年)10月8日 - 相模国の北条氏と甲斐国の武田信玄が三増峠の合戦で戦う。また戦国最大規模の山岳合戦である。

==== 江戸時代 ====
幕藩支配
江戸時代初期の寛永10年(1633年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。

相原村 - 旗本領(佐野家、藤沢家)
橋本村 - 旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)
小山村 - 幕府領、烏山藩領
清兵衛新田 - 幕府領
上矢部村 - 烏山藩領
矢部新田村 - 烏山藩領、旗本領(鈴木家)
淵野辺村 - 幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)
鵜野森村 - 幕府領、旗本領(永井家)
上鶴間村 - 幕府領、旗本領(大岡家)
上九沢村 - 旗本領(佐野家)
下九沢村 - 旗本領(佐野家、加藤家)
大島村 - 烏山藩領
田名村 - 烏山藩領
上溝村 - 幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)
下溝村 - 幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領
当麻村 - 幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)
新戸村 - 幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)
磯部村 - 幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)
これらのうち、幕府領および旗本領は、慶応4年/明治元年6月17日(1868年8月5日)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。

新田開発
原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって天保14年(1843年)に着手され、安政3年(1856年)までに49名が入植して200ヘクタール (ha) 余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。
台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。
また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。
新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである。

==== 明治時代 ====
町村制の施行
1889年4月1日、町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村・田名村が誕生した。

相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が成立。
当麻村、下溝村の合併により麻溝村が成立。
新戸村、磯部村の合併により新磯村が成立。
大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が成立。
上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が成立。
上溝村が溝村と名称変更する。
田名村は単独で田名村となる。

1926年1月1日には、溝村に町制が施行され、上溝町となった。

軍都計画

相模原は東京市から近く地価の安い平坦地が広がっていたことから、1930年代後半以降、1937年(昭和12年)9月30日には陸軍士官学校(東京府東京市牛込区市ヶ谷台から高座郡座間村へ移転)をはじめとする陸軍施設が相次いで移転・開設された。養蚕を主とする畑作農村から軍事都市への急速な変貌に対応するため、神奈川県が主体となって区画整理事業に着手した。
1939年にまとめられた相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町(上溝)、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7 km2)の区域に、10万人の人口を想定した壮大な都市計画が行われた。
造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園が計画された。区域内は住居地域345万坪(約11.4 km2²。1人当たり50坪)、商業地域35万坪(約1.2 km2。1人当たり30坪)、工業地域(軍事施設を含む)175万坪(約5.8 km2)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約1万4千人弱と想定して小学校を14校、中等学校を3校整備することとなっていた。また中央公園をはじめとして区域内の公園用地として約18万坪(約0.6 km2)があてられていた。
相模陸軍造兵廠は、前身の相模兵器製造所が1938年に開所し、1940年に相模陸軍造兵廠と改称して成立した。本来は北側の境川を挟んで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に管理機能を集中していたが、戦後にこの施設を接収して相模総合補給廠とした在日米軍は西門を事実上の正門として使用している。
この軍都計画は若干の変更の上、1940年に内務省から公示されて事業が着手された。
1941年4月29日に8町村(相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村)の新設合併により、高座郡相模原町が誕生した。町役場を淵野辺に置き、9月1日に上溝(旧上溝町役場)に移転した。
1941年12月8日に始まった太平洋戦争によりこの軍都計画の工事は停滞し、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。また水道の整備も戦争末期の1945年春にはおおむね完了した。
1948年9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „相模原市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Σ64, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons