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岡山市: 歴史

岡山市: 歴史

=== 古代から律令時代まで ===
古代の岡山は吉備国の一角であり、弥生時代と古墳時代に、吉備は大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権) の一角であった。日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した。
しかし畿内との対立と抗争に敗れ(日本書紀にある「吉備の反乱」伝承)、抑圧の中で昔日の面影を失い、中央政権による再編を甘受せざるをえない状況に追い込まれ、律令制下にあってこの地域は備前国・備中国・備後国に、また713年(和銅6年)には備前6郡を割いて美作国に分割され各国に国府が置かれた。吉備国が分割された後、備前国の国府は現在の岡山市中区国府市場のあたりと考えられている。
域内に置かれたと見られているが、確定的な遺跡が発掘されるに至っておらず不明な点が多い。

岡山周辺は室町時代までは農村地帯で、16世紀には金光氏が小規模な城を築いて拠点にしていた。戦国時代に岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けた宇喜多直家は1570年(元亀元年)に金光宗高を謀反の疑いありとして切腹させて、岡山城を奪った。その後城を大規模に拡張し、山陽道を岡山経由に付け替えて、備前国内外の商人を呼び寄せ、1573年(天正元年)に本拠にすべく移住した。直家が始めた城下町・岡山の振興は、秀家の代にも続けられ、これ以後、岡山は主に備前国の政治経済の中心地となった。

宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで没落すると、1601年(慶長6年)に小早川秀秋が岡山城に入った。秀秋は翌1602年(慶長7年)に若年期からの過度なアルコール摂取による、アルコール依存症による内蔵疾患(諸説あり)で死去し、小早川家は断絶した。1603年(慶長8年)には池田忠継が入り、以後江戸時代を通じて、岡山は池田氏の城下町となった。
城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の綱政の代である1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。後楽園が造成されたのもこの時期である。しかるに町方人口は享保のころから漸減し、幕末の1858年(安政5年)には2万0092人となる。これは岡山藩の新田開発による農村商業の発達とは対照的であり、藩当局が農村から都市への人口流入を抑制する政策をとったことによるものとみられる。

明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県により、岡山は岡山県の県庁所在地となった。
1878年(明治11年)9月29日に郡区町村編制法が岡山県において施行され、岡山市の前身となる岡山区が発足した。同法は府県により施行日が異なっており、同法を最初に施行したのが岡山県だったことから、岡山区は全国で最初の区となった。
1889年(明治22年)6月1日に市制が施行され、岡山区は岡山市へ移行した。郡区町村編制法では最初の区となった一方、市制では最初の31市から2ヶ月遅れての施行となった。市制施行当時、面積5.77 km2、人口4万7564人。1920年(大正9年)には人口9万4585人を数えた。
1892年(明治25年)7月23日、台風が高知市に上陸して山陰に抜ける。暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、旭川が決壊し多大な被害がもたらされた。
1918年(大正7年)8月9日、全国的に米騒動(1918年米騒動)が発生する中、岡山米取引所に数十人が詰めかけて立ち合い終了後に出てくる仲買人を攻撃。群衆は週百人規模に膨れ上がり、騒乱状態の中で仲買人など多数の負傷者を出した。同年8月13日夜には、百数十名が米穀商などを襲撃して事務所を破壊。素封家の自宅には放火も行われた。
1927年(昭和2年)2月1日、岡山市に本店を置いていた奨学貯金銀行が資本金不足を理由に業務停止命令を受け 事実上倒産。
1930年(昭和5年)、岡山市歌(初代)を制定。
1939年(昭和14年)11月27日、岡山市役所本庁舎(木造2階建て)が全焼。御真影や戸籍原簿は持ち出されて焼損を免れた。後日、放火容疑で用務員が逮捕。
第二次大戦末期の1945年(昭和20年)6月29日に岡山空襲で大きな被害を受けて1000人以上が犠牲となり、10万人以上が家を失った。

1947年(昭和22年)12月9日、市内に昭和天皇の戦後巡幸。翌日にかけて昭和天皇が岡山市役所、高等女学校、大阪毎日新聞岡山支局、天満屋百貨店、母子寮などを視察、慰問する。
混乱期を過ぎると街は順調に発展し、周辺市町村との編入合併を進めた。1960年(昭和35年)ごろには、倉敷市を含めた県南広域都市の構想を岡山県知事が提唱したが、倉敷市長の失踪に端を発する騒動により、白紙撤回された。
1958年(昭和33年)4月、岡山市民歌(2代目)を制定。
1972年(昭和47年)3月15日には山陽新幹線が岡山駅まで延伸開業、1988年(昭和63年)3月20日には瀬戸大橋線が開業し、それ以来鉄道交通の要衝となっている。
1995年(平成7年)1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、震度4を記録。目立った被害はなく、ブロック塀に亀裂が入ったりズレたりする軽微な被害があった。交通機関では山陽新幹線や市内の各在来線が運転見合わせになるなどの影響があった。
1996年([平成8年)には、国から中核市に指定された。その後の2005年(平成17年)3月22日、隣接する御津郡御津町・児島郡灘崎町の2町を編入、2007年(平成19年)1月22日、隣接する御津郡建部町・赤磐郡瀬戸町の2町を編入した。
2007年(平成19年)6月26日夕方に、市の人口が70万人を突破した。
2009年(平成21年)4月1日には新潟市・浜松市(2007年4月移行)に続いて全国で18番目、中国・四国地方では広島県広島市に次いで2番目となる政令指定都市に移行し、北区・中区・東区・南区の4つの行政区が設置された。
2012年(平成24年)6月1日には、市制123年目となるこの日に「岡山市民の日」が制定された。主に岡山商工会議所青年部が中心となり、政令市移行をきっかけにさらに市民が郷土愛を深めるために、岡山市へ働きかけたものである。

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Quelle: Text: Wikipedia – „岡山市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Aimaimyi, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons