宇都宮市: 歴史
宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社(社伝によると西暦353年創祀)の門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。
「宇都宮」という都市名と、嫡流「宇都宮氏」の名称は、『延喜式神名帳』にある下野国唯一の一宮名神大社である「二荒山神社」の別号「宇津宮大明神(宇都宮大明神)」に由来するというのが一般的だが、他にも「現の宮」「遷しの宮」「討つの宮」など諸説がある。江戸期の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」によると、「宇」とは「宇宙」つまり「太陽」の意で、また「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京(みやこ)」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味であり、すなわち(当時は関東の中心は江戸であったが)宇都宮とは古くから関東の都である、とある。宇都宮二荒山神社はその武徳が尊ばれ、かつてこの地を訪れた田原藤太藤原秀郷(藤原北家魚名流)や武家源氏の祖である源頼義・八幡太郎源義家父子(河内源氏)、源頼朝(河内源氏)、徳川家康(河内源氏義家流新田氏)等の名将らも戦勝祈願し、土地・金品などが寄進されたと言われる。
律令制度が整備されてからは、道路としての東山道、鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通っていた田原街道の田川橋梁は古来鎌倉橋と呼ばれてきた。
その後、慶長3年(1598年)に宇都宮に入封された蒲生秀行(12万石)が日野町や紺屋町を造成し、宇都宮氏の居館(中世宇都宮城)は近世宇都宮城へと継承された。さらに小山藩3万石から加増を受け15万5千石で宇都宮藩に入封された徳川家康の腹心である本多正純が城下町を含めた宇都宮城改築の大普請を行い、城下町としての宇都宮の礎を築いた。また、江戸時代には日光街道・奥州街道が通る宿場町(宇都宮宿)としても繁栄した。
江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で入り、幕末まで続いた。宇都宮新石町出身の蒲生君平は天皇家陵墓に関する調査研究結果を『山陵志』にまとめて幕府・朝廷より評価され、その功績で宇都宮藩は天皇陵墓修復工事を任され、当時の難局を回避した。
明治維新では宇都宮城周辺が戊辰戦争の戦場となり、また日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年(昭和20年)7月12日の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失。残った遺構の多くも戦後の戦災復興事業の過程で消失した。
有形の歴史的遺産は時代が生まれ変わるごとに破壊され、現在まで残されているものはごくわずかであるが、宇都宮二荒山神社を礎として、様々な文化を受け入れる温故知新の社会構造は、脈々と現代に受け継がれている。
宇都宮二荒山神社の門前町であり、二荒山神社の神職者として赴任した藤原道兼流で嫡流宇都宮氏(関東の豪族下毛野氏や八田氏、貴族中原氏の流れを汲むとも言われる)の居館(宇都宮城)が置かれた。日本三代実録の貞観11年2月28日(869年3月18日)の記述には「二荒神加正二位」とあり、宇都宮二荒山神社は地方社としては最高位の格式が与されていた。
また、『吾妻鏡』の文治5年7月25日(1189年9月14日)の記述には奥州征伐に向かった源頼朝が(畠山重忠以下、小山朝政や宇都宮朝綱・業綱父子といった中路軍を率いて)宇都宮(古多橋駅)に宿し宇都宮社(宇都宮二荒山神社)に戦勝の願を立て奉幣したとあり、宇都宮二荒山神社が当時の武門から厚い崇敬を受けていたことが推察される。
宇都宮二荒山神社の神職者の地位にあったとされる宇都宮氏は、この地に在る間も京都との交流を続け、この地に中央文化の息吹を吹き込み続け、鎌倉時代には宇都宮頼綱が宇都宮歌壇を築いて小倉百人一首の成り立ちに関わるなど、文化教養の養生において名跡を残した。また、源頼朝をして「東国一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱、元寇の際に討伐軍十万の総大将として九州へ赴いた宇都宮貞綱、元弘の乱で楠木正成と互角に渡り合った宇都宮公綱など、宇都宮氏は武門としても歴史にその名を残している。
宇都宮氏の名声の影には、始祖藤原宗円以来の宇都宮氏の郎党「紀清両党」(益子氏と芳賀氏)の力があった。宇都宮貞綱が正和元年(1312年)母の十三回忌の供養の折に鋳造し、菩提寺である東勝寺に奉納した鉄製塔婆は、東勝寺廃寺に伴い芳賀高継創建の清巌寺で保存され、現存する日本最古かつ最大の鉄製塔婆として国の重要文化財に指定されている。
宇都宮氏は京との結びつきを保ちつつ鎌倉時代には鎌倉幕府の評定衆や引付衆として、また室町時代には室町幕府の足利尊氏の意向によって下野国守護職など(上野国・越後国などの守護職も)を兼務し中央政府を支えるとともに、鎌倉府(足利氏)から関東八屋形に列せられ、鎌倉府、関東管領(上杉氏)とともに関東の支配体制の一翼を担い、主に毛野川流域一体の治安維持に務めた。毛野川下流にあたる下総国 - 常陸国(現在の茨城県南部)を治めた常陸国司の小田氏も宇都宮氏の庶流である。
室町時代中期には上総国守護職、京都扶持衆に任じられるなど幕府に重用されたが、幕府と鎌倉府の対立に巻き込まれ、鎌倉府から討伐されるなど弱体化しつつあった。
室町時代後期には関東の戦国時代のきっかけとなった享徳の乱が勃発。宇都宮等綱は上杉氏側につくが古河府(かつての鎌倉府)支持の小山持政との戦いに敗れ劣勢となり、次代の宇都宮明綱は幕府側から鎌倉府側へと方針を変えて難を逃れた。
戦国時代、国司・宇都宮氏は擡頭する武士団を牽制して関東一帯の治安維持に寄与し、結果的に戦国大名と評される勢力を持っていた。
戦国時代初期には「宇都宮氏中興の祖」・「奇蹟の武人」などと呼ばれた名将宇都宮成綱が現れ、宇都宮氏を戦国大名へと脱皮させ、独立しつつあった宇都宮一族や周辺勢力を巧みに取り込み、内乱を制し、家臣団の立て直しを行うなど勢力を回復させた。16世紀初頭には永正の乱が勃発すると、成綱は娘婿で次期古河公方候補である足利高基の古河公方擁立を企て勢力の拡大を狙った。その過程で対立した宿老中筆頭の芳賀高勝を永正9年(1512年)に討ち宇都宮錯乱という大きな内乱が発生し、2年かけて鎮圧した。その後、下野進出を狙う足利政氏支持の佐竹義舜と北関東の覇権を巡って争い、永正11年(1514年)に永正の乱の事実上の決戦である竹林の戦いで勝利した。その2年後には縄釣の戦いで再び佐竹義舜を破り、さらには敗走する佐竹軍を追い常陸侵攻も行っている。成綱は北関東の覇権争いの勝利と古河公方の擁立を同時に成就させることに成功した。短い間だが、宇都宮氏は成綱の代に北関東最大の勢力となり、北関東の覇者たる存在として君臨した。
しかし、栄光の時代も長くは続かなかった。成綱没後、次代の宇都宮忠綱は結城政朝と戦い敗れてしまう。さらには同時期に大きな内訌(大永の内訌)が発生し、忠綱に反抗的な家臣らが結城政朝に通じて、成綱の末子である宇都宮興綱を擁立し、忠綱を追放した。その後は家臣団による専横が長く続き、宇都宮氏は大きく弱体化してしまった。
宇都宮尚綱は那須高資と戦って敗れ、壬生綱房が幼少の宇都宮広綱から宇都宮城を奪取したが、忠臣芳賀高定の働きにより広綱は宇都宮城を奪還した。この時、鬼怒川東岸の飛山城が前線基地として使われた。宇都宮周辺の城郭の様相が当時の度重なる攻防の歴史を窺わせる。 …