市川市: 歴史
=== 前史 ===
市川市域に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には旧石器時代の遺跡が多数存在する(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。縄文時代の遺跡としては、堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等の国の史跡となっている貝塚遺跡があり、その他の貝塚を含めた遺跡数は約60ヶ所にのぼる国内最大級の集中度で、縄文時代には栄えた地域となっていたことが分かる。さらに、弥生時代の遺跡も多数存在する(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。
市川市の中でも、国府台より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担ってきた。古墳時代初めには小集落ができ(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)、多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30ヶ所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。
律令制により国府台に国庁と国府が置かれ、下総国の中枢となった。国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。市川市には下総国の国分寺・国分尼寺が所在していたとされており、その跡も発掘されている。
下総国分寺跡
国分寺跡の伽藍は現在の下総国分寺と重複する位置にあり、金堂跡は現在の本堂の場所にあたる。ただし、塔は西に、金堂・講堂は東に傾いており、堂塔の向きは一定ではない。一帯は須和田遺跡や国府跡推定地が残り、古くから文化的中心地であった。
金堂 - 東西31.5メートル、南北19メートル。
講堂 - 本堂裏の墓地内に位置する。東西26メートル、南北18メートル。
七重塔 - 18メートル四方。礎石は本堂前に移動されている。
下総国分尼寺跡
国分寺北東の市川市国分4丁目(北緯35度44分47.56秒 東経139度54分46.70秒)に所在する。1932年の発掘調査で金堂・講堂の基壇が確認されるとともに「尼寺」と書かれた土器が出土し、位置の確定に至った。なおそれ以前は、当地はかつて「昔堂」と呼ばれ、国分僧寺跡と考えられていた。
発掘調査により寺の範囲を区画する溝が北・東・南で確認され、北溝は340メートル・東溝は303メートルに及び寺域は不整な方形をなしている。現在は市川市営の国分尼寺跡公園として管理されている。
金堂 - 東西25.5メートル、南北22.4メートル。
講堂 - 東西27メートル、南北19メートル。
10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の戦いに敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌が国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠が国府台城を築城した。16世紀には、国府台城は、里見義堯ら里見氏と後北条氏との間で2度にわたり戦われた国府台合戦の舞台となった。戦国時代には市域の大半は千葉氏やその重臣の高城氏の領域であったが、小田原征伐で没落する。
江戸時代には一部が栗原藩の支配地だった時期もあるが、大部分は幕府領(天領)・旗本領とされた。特に行徳地区では徳川家康の意向により塩田が整備された(行徳塩田)。
戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。すぐに大鳥・土方らは宇都宮を経て日光へ向かったが、その後、別の旧幕府軍(撤兵隊)と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。
1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった。
1885年(明治18年)には、都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから、大学校用地跡に陸軍教導団が置かれた。教導団は1899年(明治32年)に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。
第二次世界大戦では、13回の空襲被害を受けた。最大の物的被害が生じた空襲は1945年(昭和20年)2月25日のものであり、東京都内を標的としたものが悪天候などにより市川市内に着弾。市川新田地域と中山法華経寺門前であり、70戸余りの家屋が全焼した。
終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国府台医療センター(旧・国府台陸軍病院ほか)、市川市スポーツセンター(国府台公園)、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校、千葉県血清研究所の各施設に変わった。
八幡地区は寛平年間(西暦889年 - 898年)に創建された葛飾八幡宮を中心に発展し、中山地区は文応元年(西暦1260年)に創建された中山法華経寺の門前町として発展した。江戸時代には、市川地区、八幡地区に佐倉街道(成田街道)の宿場町である市川宿、八幡宿があり、五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれた。成田街道の別ルートである日本橋から海路を経るルートとして行徳地区にも宿場町があり、江戸川水運の中心地として発展した。
現在の真間に舒明天皇時代の国造の娘である手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、奈良時代にはその噂が都にまで届いて万葉集に詠まれるほど有名だった。737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。
斎藤月岑の江戸名所図会には、葛飾八幡宮および八幡の藪知らずが、歌川広重の名所江戸百景には、「真間の紅葉 手古那の社継はし」「鴻の台とね川風景」が描かれている。
1934年(昭和9年)11月3日 - 東葛飾郡市川町、八幡町、中山町、国分村が合併し、市川市が発足した。千葉県内では千葉市、銚子市についで3番目の市制施行である。
1949年(昭和24年)11月3日 - 東葛飾郡大柏村を編入。
1955年(昭和30年)3月31日 - 東葛飾郡行徳町を編入。
1956年(昭和31年)10月1日 - 東葛飾郡南行徳町を編入。
1967年(昭和42年) - 下校中の小学生のランドセルが自動車と接触、ひっかけられて轢き逃げされる事件が発生。市議会が次年度の一年生からランドセルを廃止する決議を行う。
1980年(昭和55年)3月18日 - 防災行政無線運用開始。
1992年(平成4年) - 日本で最初に「駅前放置自転車対策条例」(平成4年12月条例第27号)を施行した。
2007年(平成19年)4月27日 - 同年2月の議会での「政令指定都市検討促進決議」を受け、市川市、船橋市、松戸市、鎌ケ谷市が、この圏域の将来的な選択肢の一つとして、合併や政令指定都市への移行に関する共同研究を目的とした「東葛飾・葛南地域4市政令指定都市研究会」(2008年9月1日現在の4市推計人口1,649,569人)を設立した。同研究会は2009年3月研究報告書を出した。この研究報告により合併のメリットがさほど見いだせないことがわかり、中央においても合併論が下火になったこともあり、合併推進論は全く語られなくなった。
2008年(平成20年)10月26日 - 市で初めての還暦式が行われた。地方自治体が催す式典としては先陣の一つとされる。
2017年(平成29年)4月28日 - 新第2庁舎が竣工。
2020年(令和2年)8月 - 新第1庁舎の4階から7階が先行開庁。
2021年(令和3年)1月 - 新第1庁舎の全てのフロアで業務開始。ワンストップサービスがスタート。
2021年(令和3年)11月30日 - 老朽化により中央公民館を閉鎖
2026年(令和8年)4月1日 - 住民基本台帳による人口が初めて50万人を突破。
佐倉街道(成田街道)のうち水戸街道からの分岐である新宿から数えて2番目の宿場が市川宿、3番目が八幡宿である。新宿から八幡宿までは五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれていた。水戸街道は千住宿で日光街道から分岐し、次の新宿で佐倉街道と分岐している。
佐倉街道(成田街道)
- 市川宿 - 八幡宿 - …