Heimatgeschichte · Kurashiki ·

倉敷市: 歴史

倉敷市: 歴史

各地域の沿革の詳細は、倉敷・水島・玉島・児島・庄村・茶屋町・船穂町・真備町の各ページを参考のこと。

市内の最も古いとされる遺跡は紀元前2万年ごろ先土器時代の鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海は陸地であったと推測されている。1万年前に氷期が終わり海水面が上昇、6000年前までに海になった。なお、中津貝塚、福田貝塚、船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡が多く存在している。
もっとも早く村として形成されたとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年ごろの上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀ごろに土器を生産した二子窯跡に加え650年ごろに作られた日畑廃寺跡など多くの遺跡が集中している。
現在の倉敷市一帯は3世紀から律令国になるまでは吉備国、飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。備中国の中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市に置かれていたと推測され、高梁川を隔てた西に位置する真備地区一帯を拠点としていた吉備国の有力氏族・下道氏(しもつみち)出身の吉備真備が活躍したのは奈良時代8世紀後半ごろである。
倉敷地域の倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖と児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代初めごろには既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった。10世紀中ごろ、藤原純友の乱の後、小野好古が鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏が支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。水夫達は周辺で行われた数々の戦いにかり出され、水軍として活躍したといわれている。なお、中世の高梁川河口は現在の水江・船穂町柳井原・船穂町水江付近である。
児島地域は吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島の西側にあたり、『古事記』や『万葉集』などに書かれた古くから海上交通の要衝であったためヤマト王権の時代に屯倉が置かれた。奈良時代に建立された熊野十二社権現の寺社地や通生荘(かよおのしょう)の荘園などが存在し、本州と四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱・源平合戦藤戸の戦い・南北朝の戦いなどに関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』に登場する児島高徳は当地の出身であるとする説がある。
玉島地域の平野は江戸時代初めごろまで七島・柏島・乙島(おとしま)などの島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった。八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然の良港で中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代 - 室町時代に陶(すえ)から亀山周辺で生産された須恵器(亀山焼)という甕(かめ)などの土器を出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は『万葉集』で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦・水島の戦いで舞台になった乙島と柏島から北に位置する七島に囲まれた一帯と推測される。
『和名類聚抄』(平安時代の辞書)によると7世紀の律令制によって定められた現在の倉敷市内にあたる行政区域は大まかに次の通りとされる。

備中国
窪屋郡 - 阿智郷(阿知、万寿、帯江地区)、大市郷(大内、川入、酒津、水江)、美簀郷(祐安、西岡、浅原)
都宇郡 - 深井郷(二子、松島、上東、山地)、駅家郷(矢部、日畑)
下道郡 - 河辺郷(川辺)、曾能郷(岡田、市場)、八田郷(箭田)、邇磨郷(二万)、呉妹郷(妹)、穂北郷(陶)、秦原郷(辻田)
浅口郡 - 間人郷(柏島、乙島、黒崎)、船穂郷(船穂)、阿智郷(西阿知地区)
備前国
児島郡 - 児島郷(林、木見、串田、曾原、福江)、都羅郷(連島、福田、下津井、ほか)※連島は備中国浅口郡へ移管
※括弧内は近辺と推定される現在の地名

倉敷一帯の島々は豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家が始めた干拓が江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成された。なかでも小豆島に匹敵する大きさの吉備児島は児島半島となった。江戸時代に入り幕藩体制下ではかなり複雑な統治がされており、場所によって様々な領地が入り乱れている。天領である倉敷代官所領の他、備中松山藩・岡山藩(鴨方藩・生坂藩などの支藩を含む)・浅尾藩・丹波亀山藩・岡田藩他の大名領に加え、知行処(旗本領)や寺社領などがあった。
天領になった倉敷旧市街は高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になり、1614年備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所(支配所)がおかれた。その後、倉敷が商人の町として発展したのは港の機能より年貢米の集積地としてであった。倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。なお、倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵である。
児島地区は岡山藩の支藩である天城池田家支配の下、古くからの産業である塩田に加え、周辺の新田で栽培された綿花を使った機織りが盛んになり、藩はそれらに専売制を取り入れ財政の柱にすえる。やがて機織りによって作られた製品が地場産業となり、真田紐や足袋などといった名産品を生み出し“繊維の町・児島”の素地を形成していく。沿岸の港のうち下津井は北前船の寄港地、田の口と下村(現下の町)は瑜伽大権現と四国金刀比羅宮を結ぶ港として繁栄した。
玉島地区の甕ノ泊は備中松山藩藩主の水谷勝隆・勝宗親子と岡山藩による干拓で瀬戸内海側に面していた乙島や柏島と陸続きになった。その後、水谷氏により高瀬通しと呼ばれる水路が作られ、下流の玉島新田と阿賀崎新田は高梁川上流から高瀬舟によって運ばれてくる物資を北前船に載せる積出港として発展した。やがて“玉島湊”として全国に知られるようになるが、1693年水谷氏断絶後は幕府に領地の多くが接収され、備中松山藩領として残った羽黒神社周辺を除き倉敷代官所、岡山藩、丹波亀山藩などによって細分統治された。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „倉敷市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Phronimosx, Public domain – Wikimedia Commons